第17話 いかがわしい男

文字数 2,685文字

 近畿地方は先週梅雨に入ったとニュースは告げていた。けれど見上げる空は濁りのない青一色で、おそらく梅雨前線は太平洋のずっと南の方でその涙をいっぱいに溜め込んで北上の機会をじっと待っているのだろうが、今はその気配すらなかった。

 薄っすらと汗が滲む日差しを浴びて、彼女は目を閉じる。とても静かだ。

 日曜ともなれば、あちこちで子供たちのはしゃぎ回る声が聞こえ、真正面のおもちゃのような観覧車が回り、賑やかな園内アナウンスも聞こえて、楽しげな音楽も流れている。

 だが今は平日の昼下がり、訪れる人も少なく、ドラえもんもアンパンマンも時を忘れて静かに止まったままだ。それでいいと思った。彼女にとってはその静寂がたまらなく心地よかった。

 その静けさの中で、今でも優しい父が傍で自分を見守っているような気がしていた。友里の心の時計は、あの時からずっと止まったままなのだろう。

 その時だった。

「あの、すみません」

 耳元で男の声がした。友里がハッと目を開けると、一人の若い男がにやにやしながら立っていた。ボサボサの髪を肩口まで長く伸ばし、決して清潔とは言えないTシャツにジーンズ。

 以前テレビの再放送で見た七十年代の青春ドラマに出て来そうなむさ苦しい風体だ。いかにも貧乏臭い。友里は一瞬怖くなった。

「日向ぼっこ? ああ、、別に俺、怪しいものじゃないから」

(またや、またわけのわからんやつ来よった。面倒臭っ! もう邪魔せんとってほしいわ)

 キッと睨みつける友里に対して別段悪びれる様子も無くへらへらしながらその男は言う。

「今日の午後一時からそこの特設ステージでライブやるんだけど、もしよかったら見に来ない?」

 そう言いながら、男は手にしたビラを友里に手渡した。

「ライブ……」

「そうライブ。別に君をナンパしに来たんじゃないから」

(バレてる)

 見た目のむさ苦しさとは裏腹に口から出た言葉はきれいな標準語だった。そのギャップと相まって、今まで大阪から一歩も出たことのない友里にとって、それはまるで異国の言葉のようで軽いショックだった。

「ん? 俺の顔に何か付いてる?」

 じっと見つめる友里に対して男が不思議そうに言った。

「あ、いいえ……」

「そう、じゃ興味あったらぜひ見に来てね。ここさあ、こんな街の真ん中にあるのにあんまり人いなくてね」

 それだけ言うと、男はくるりと背を向けて親子連れのところへ向かった。先ほど金魚すくいをしていた親子連れだ。そのいかがわしい男は、どうやら彼女だけではなくこの場にいる人すべてに声を掛けているようだった。

 時計を見ると時刻は十二時半を少し過ぎたところだ。夕方のケーキ屋のアルバイトまでどうせ何もする予定はない。本来なら学校にいるはずなのだから当たり前だ。友里は手にしたチラシに目を遣る。

『THE・CABOZライブ 和製S&G! 爽やかな歌声、感動をあなたに 阿倍野近鉄屋上特設ステージにて 日時 6/7(木)午後一時』

 一生懸命作ったのだろうが、素人感は拭えない。まるで文化祭のチラシのようだ。

「何て読むんやろ。和製S&G??」

 友里はその一風変わった名前に首を傾げながら、七十年代青春ドラマ男の聞きなれない言葉に妙に心惹かれていた。



 午後一時。狭い特設ステージ。友里は開場を告げるアナウンスに導かれるまま、その最後列に座った。席の数は五十にも満たない。狭い客席のさらに半分以上が空席のままだ。

 その座っている客も見るからに時間を持て余していそうな年寄りとその孫らしき子供たちだ。イベント内容など何でも良いのだろう。

 友里以外に若い女性はもう一人だけいた。その女性は最前列にぽつんと一人で座っていた、と言うより、陣取っていたと言うほうが適切だ。それぐらい気合が入っているように見えた。

 バンドの追っ掛けか、はたまた身内だろうか。濃い化粧、流行のワンレンボディコン、その真っ黒な出で立ちは、明るい日差しの中でそこだけまわりの色を吸い込んでいるように見えた。とても浮いている。が、真っ白のセーラー服を着て、ぽつんと一人このようなところで時間を潰している自分も相当に浮いた存在に思えた。

「皆様、お待たせいたしました。それではこれからザ・カボズのお二人による演奏をお楽しみください」

 作り笑顔すら普通にできないようなMCが紹介した後、二人の男性が元気良くステージに現れた。一人は先ほど友里のところへチラシを配りに来た七十年代青春ドラマ男と、もう一人もTシャツ、ジーンズ姿、首からギターを提げていた。どちらもすごくさえない。

 奇をてらってそれは突然に始まった。

 hummmmmn hummmmmn hummmmmmn ♪

 その二人の外見からは想像できない美しい調べだった。今まで学校の音楽の授業以外に、身近で生の歌声、生の音楽を聴いたことのない友里にとってそれは衝撃的だった。あっという間に一曲が終わったが、曲についての紹介はなかった。

「何と言う曲だろう?」

 友里の心に強く疑問が残った。

「次、エミリー・エミリー、聞いてください」

 そっけなくギター男が言った。

 ギターのソロから始まって例の青春ドラマ男がすぐにボーカルを被せた。そのみすぼらしい見てくれとは裏腹に恐ろしいぐらいに透き通った声だった。

 英語なので歌詞はわからない。けれど友里は後頭部に一発くらったような衝撃を受けた。出演の二人はほとんどしゃべることもなく、いや正確には二人はしゃべっていたはずだが、友里の耳には音楽以外は聞こえていなかった。

 その後、淡々と二人の演奏は続き、僅か三十分ぐらいで終了となった。その僅か三十分の演奏が友里の人生を変えた。

 ステージが終わって友里はすぐに二人に会いに行った。どうしてももう一度、あの青春ドラマ男に会いたかった。彼女は今まで、ただ何となく生きて来た。どうでもいいような欲求や拒絶はあった。でもそれらすべては絶対的な思いではない。しかし今、友里が感じているものは、心の奥底から湧き起こるとても強い意志だった。こんなこと初めてだ。思考よりも本能。まさにこれだった。

 衣装も何も、舞台荷物らしき大した持ち物もない。しいて上げるなら、ギター一本だろう。二人の若い男たちは自分たちの演奏が終わると、ギャラをもらってさっさと会場を後にしていた。その後姿を遠目に見て、友里は猛然と、走る。走る。

 閑散とした午後のデパートの屋上を友里は一人駆け抜けた。お腹の重苦しさはもうとっくにどこかに行ってしまっていた。

                                       続く
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