第74話 子育てなめとったらあかん

文字数 2,144文字

うす暗いラブホテルの部屋に、アラームの電子音が鳴り響いていた。僕はベッドの宮付きに埋め込まれた時計を見る。

 6:00 の表示。ホテルの窓は、外から中が見えないように厚いシェルターで覆われているので、部屋の中からは、夜なのか朝なのかわからない。でも十一月下旬の日の出は遅い。この時間でも外はまだ暗いのだろう。

 僕はゆっくりと上半身を起こす。まだ頭の芯が痺れているように感じる。酷く疲れているのに熟睡はできなかった。友里もまだ毛布に包まって眠っている。

 僕はそっと口づけをした。友里がゆっくり目を開ける。その瞳はじっと僕を見つめている。僕はもう一度キスをして強く抱きしめた。

「もう行かな」

 友里が囁く。でもやはり行き場のない二人の情は止まらない。

 午前六時三十分。二人はホテルを後にする。

 道はまだ濡れている。明け方まで降り続いた雨はようやく上がり、東の空が白みだしていた。もうすぐ夜が明ける。僕は友里を堺の実家まで送り届け、急いで自宅へと戻った。

 マンションの部屋に入ると、母が遼太にミルクをあげているところだった。僕の顔を見ると、開口一番、「あんた、どないするつもりや」と怒鳴りつけた。

「ごめん、何とかするわ」

「何とかって、あんた……」

 母の声は低く震えていた。しかし僕にも覚悟はあった。もしこのまま静子が戻らなくても、自分一人で何とかしなければならない。できるとかできないとかの次元はすでに通り過ぎてしまった。もうやるしかないと思った。自分で選んだ道なのだから。決して逃げない決意があった。

「やるよ。僕一人で」

「あんたな、子育てなめとったらあかんで! 犬や猫を育てるのと訳が違う!」

「でも、やるしかない。もう決めた。離婚する」

「大馬鹿者やな。わたしは絶対手伝わへんから。あんたが一人で何とかするって言うたんやからな。よく肝に銘じておくことや」

「わかった」

 それ以上、母はもう何も言わなかった。

 その日から、僕の生活は一変した。

 しかし、いくら僕が一人でやると言っても、物理的限界はある。それにわからないことだらけだった。これまでまともに育児などしたことがなかったのだから当たり前である。

 何より僕は正社員として仕事を持っている。平日の今日ももうすぐ出社時間になる。だが一才にも満たない子供を置いて仕事に行くわけにはいかない。そこで上司に電話を入れる。昨日、体調不良で休んだことにしていたので、まだ良くならないと告げると、上司は快諾して良く休むようにと言った。

 こうして嘘の傷口はどんどん大きくなっていく。いずれこのことは会社にもわかってしまうのだろう。しかし僕は、今は悩んでいる暇はないと感じる。ただ、静子のことは考えない。どんなことがあってももう頼らないと決めていた。

 とにかくすぐ目の前の問題を解決しなければいけない。それは重篤な怪我人の止血を一番にしなければいけないことにも似ている。そうだ、まず乳飲み子の遼太を何とかしなければならない。

 そこで僕は朝一番に直也をひかりの家に連れて行った。もちろん遼太もいっしょに車に乗せている。昨日、僕はひかりの家に入ることができなかった。他のお母さんや近藤たち職員の目を気にしていたからだ。しかし今朝はそんなことを考えている場合ではない。

 昨日からの雨で、茶色く濁った水溜りだらけの敷地内に車を入れる。玄関で出会ったお母さんたちの目は、僕が懸念していたほど厳しくはなかった。

 ただ、帰り際に近藤から「あの、お父さん、必ず五時までに迎えに来てください」と、事務的に告げられる。それはいつもの朗らかな近藤ではなく、公的な立場にある副所長の顔だった。(仕事だから預かるけれど)僕にはそう思えて仕方なかった。そしてその足で僕は区役所を訪ねる。

 かつて直也のことでは大変世話になった、いつもの区役所の福祉相談窓口である。目的はただ一つ。遼太の保育所を探すためだった。が、しかし、僕のその考えの甘さは否めない。すぐに受け入れてくれる保育所などあろうはずもない。

 いくら事情を説明して、何とかお願いしますと頭を下げて頼んでも「はいそうですか、じゃあ」と、簡単に事は運ばない。職員はただ僕に「遅すぎます」と告げた。

 働きながら子育てしている世間の親たちが、皆、どれほど真剣に、そう、血の滲むような努力をして公共の保育施設を探しているか。僕はようやくその現実を知った。

 本来ならば、入所待ちが何十人もいて、それぞれに事情があり、僕の個人的問題を持ち出すのは筋違いだ。けれども、そんなことは言ってはいられない。そこを頼み込んで、何とか公立の保育所に、もぐり込ませてもらえることになった。

 上の直也に障害があり、その上、一歳未満の下の子も看なければならないということが決めてになった。すべて僕の悪行から出たことなのに、行政は今の結果だけを鑑みて判断する。職員の僕に対する個人的感情は封殺されている。法に触れるような罪を犯したわけではないのだから。

 そして事が起こる前は何もしてくれないと批判される行政であるが、一度事が起こると事務的とは言え、適宜に対応してくれる。有難いと感じた。

                                     続く   
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