第75話 新地のお母さん

文字数 2,268文字

 遼太の入所は決まった。遼太を抱っこしながら職員と掛け合ったのも有効だったのだろう。できることなら今日明日からでも入れてもらいたかったがそこまで甘くはない。

 それでも十一月下旬に頼んで、来年三月に公立の保育所に入所できるのは、とても異例とのことだった。本来、十月には応募は締め切られているし、たとえ応募できても選に漏れることも多いのだから、ここで文句を言うのは筋違いというものだろう。

 そこで僕は考える。では来年三月までの空白はどうするのか、と。 

 結果、それまでの四ヶ月は、費用は高いが、民間の保育施設に頼らざるを得ないと言うところに落ち着いた。

 僕はすぐさま、その場で福祉課の職員から現在応募可能な民間保育施設を紹介してもらって、その足で見学に行くことにした。 

 職員からコピーしてもらったリストは、数十件ほどあり、その範囲はかなり広い。幸いなことに僕の勤務先は車通勤可能であった。その中で家から会社までの通勤路で通える範囲に絞り、まず電話で交渉して反応がよければその足で見学に向かった。もちろん遼太を抱っこしながらである。

 途中、遼太をあやしながらミルクを飲ませて、おむつも交換しつつ、時間がないので僕自身は食事も摂らずに、十件近くの民間の保育施設を回った。

 しかしながら、どこも一長一短、条件にぴったり見合うような所はなかなか見つからなかった。そして日も暮れる頃、僕はへとへとになってようやく最後に一軒の小さな保育園にたどり着いた。

 それは、近鉄今里駅から近い歓楽街である今里新地のど真ん中にあった。主に新地で働くシングルマザーのための保育園で、お世辞にも良い環境とは言えなかった。

 そこの園長さんは、一見怖そうに見えたが、実は情に厚くそして温かい、〝新地のお母さん〟的な女性で、その辺りではけっこう有名な人だった。

 これも何かの縁かもしれない。僕はそう思った。けれども、遼太を抱っこしながら懸命に話す僕の目を見ながら、その園長は頭ごなしに僕を叱り付けた。

「あんたなぁ、親のエゴでこんなかわいい子供を犠牲にするんやない!」

 これは相当に効いた。まさか保育園の園長に叱られるとは思ってもみなかった。そして彼女は怒鳴りつけた後、静かに続ける。

「まあそう言うても、子供に罪はない。あんたも困っとるのやろ、ほんまやったら、新地で働く女性のためにあたしはここでこの商売やってるんやけど、あんたは男やけどな、しゃあないなあ。面倒みよか」

 そして早速次の朝から受け入れてもらえることになる。僕はその帰りに、近くの西松屋に寄り、必要な物を買い揃えた。

 紙おむつ、離乳食、おしり拭き、ベビー服等々、それらすべて園長さんが一つ一つ紙に書き出してくれたのである。 

 僕はみんなに助けられていると感じた。本当にありがたい。涙が出そうだった。でも僕にはまだ現実感と言うものがなかった。 

 ベビーシートですやすや眠る遼太。信号で停まった時、その寝顔をじっと見つめる。と、その時、メールの着信音が鳴った。友里からだった。僕は車を速やかに左に停め、メールを確認した。

『今電話できますか』

 すぐ発信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。友里はすぐに出た。声がわずかに震えている。

「ごめんな、忙しい時に」

「いや、いいけど」

「あたし、ケーキ屋に勤めてるの知ってるやろ?」

「うん」

「クビになった」

「ええ、なんで?」

「誰かがな、店長に告げ口したらしい」

「え?」

「あたしに窃盗の前科があって、そこでも同じことやるから辞めさせた方がええって」

「それ、嫌がらせやろ? そんな根拠も証拠もないことで辞めさせることなんかできるの?」

「わからへん、けど、店はヒマやったし、それが解雇するいい理由になったんちゃうかな」

「それでわかりましたって言うたの?」

「仕方ないやん。ずっとそんな嫌な思いして働くのん耐えられへん」

「その告げ口した奴って?」

「はっきりわかれへんけど……わかるやろ?」

「そうか……」

 少しの沈黙が流れ、再び友里の声が聞える。

「それで、奥さんは?」

「あれから出て行ったきりや」

「そう。ほんなら遼太君と直也、天宮さん一人で看てるんやね」

「ああ。今日なんとか遼太の保育園決まったよ」

「もう? 早いね。でも良かった」

「なあ、会いたい」

「うん。あたしも会いたい。会って話したいこともあるねん」

「話したいこと?」

「うん。電話じゃあかんねん。けど今はまだそっちには行かれへん」

「わかった。また電話する」

 それで電話は切れた。携帯の画面を見つめながら僕は考える。話したいことってなんだろうか。そして友里のバイト先への嫌がらせのことも、僕の心に暗い影を落としていた。

 翌朝、僕は直也を送って行った時、ひかりの家で友里に会えるかもしれないと淡い期待を寄せていたが、その日友里はひかりの家を休んでいたらしい。僕は夕べの電話が気にかかっていたけれど、今は二人の子供と仕事と家事で手一杯で何もできないでいた。

 静子から連絡はない。僕も連絡はしないまま三日経ち、月が替わった。そして十二月になって最初の土曜日のこと。土曜は会社が休みであったが、直也の通うひかりの家は土曜も通常業務を行っている。そして遼太を預ける保育園も同様に営業を行っていた。

 この状況下で僕が友里に会えるのは、この土曜を措いて他にはない。子供たちを預けた後、この時とばかりに、午前十時にいつものドーナツ屋の前で僕たちは落ち合い、いつものホテルへ向かった。

                                     続く
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