第78話 公証役場

文字数 2,904文字

 友里からの連絡はない。「あたし明日から風俗店で働くから」と、言い残してホテルから出て行ったあの日から三日が経った。 

 もちろん僕の方からメールもしたし電話もしたが、メールの返信はなく電話の方は、「こちらはエーユーです」のアナウンスが流れるばかりだった。

 僕は思い悩んでいた。「俺と茨の道をいっしょに歩んでくれるか?」と尋ねた時、友里は確かに「うん」と言ってくれたではないか。なのにこの冷ややかさは何なのだろう。もしかしたら友里の気持ちがすでに離れてしまったのではないか? もしそうだとすれば、自分はとんでもない道化である。

 それからさらにまた三日が経過した金曜日。依然として友里からは何の音沙汰もない。明日で最後に会ってから一週間だ。今までこんなに長く会わないことなどなかった。

 それでも僕は、仕事と家事と二人の幼子の世話に追われ、ゆっくり悩んでいる暇はなかった。夕方、晩ご飯の仕度に忙しいその最中に、リビングに置いてある携帯が鳴った。僕は煮物の火を途中で止め、慌てて携帯を取りに行った。

 静子からだった。僕は一瞬、煮物の味が変わるではないか、と憤慨したが、受話ボタンを押す。

「もしもし私です。忙しい時にすみません。公正役場にいっしょに行く話ですが、できれば来週月曜の午前中にお願いできますか?」

「わかった。行きます」

「では上六の公正役場のビルの下で待ってます。時間は予約取れたらまた知らせます。場所はわかりますか?」

「ああ、わかるよ」

「そうですか。ではよろしくお願いします。送った手紙も持って来てください。あ、印鑑も忘れずに」

 怖いほど着実に、離婚に向けて事が動いている。

 日曜日。やはり友里は音信不通のままであった。僕はしびれを切らして堺にある友里の実家へ直接行ってみることにした。

 直也と遼太を車に乗せ、朝十時過ぎに友里の家に着いた。古い家らしく玄関にはインターホンなどなく、小さな呼び鈴が一つ、扉の横にあるだけだった。僕は恐る恐るボタンを押してみる。しかし音は鳴らなかった。しばらく待ってみるが、反応がなかったので引き戸に手を掛けると、あっさり扉は開いた。鍵は掛かっていなかった。

 中は薄暗く、半畳ほどの土間の向こうにニ十センチほどの上がり框があり、すぐ左手に階段、正面には突き当りに扉の見える板張りの廊下が続いている。

 湿った生活の臭いが鼻孔をくすぐる。と、その時だった。左手の階段の上からトントントンと軽快な音が聞こえ、僕の前に姿を現したのは都であった。

「あ、直也のお父さん。なんでおるん?」

「都ちゃん、おはよう。玄関のチャイム鳴らしたけど鳴った?」

「あれ壊れてて鳴らへんねん」

「やっぱりか。えっと、お母さんいてる?」

「うんおるよ。上で寝てる」

「ああ、寝てるんか」

「起こして来よか?」

 その時、また階段を降りる音が聞えた。友里だった。スエット上下姿で目を擦りながら僕の姿を見てもニコリともしない。

「あ、天宮さん。なんでここにおるん?」

「休みやから子供らどこか遊びに連れて行こうと思って来たんや。直也も遼太もいっしょや」

 友里は一つ小さな溜息を鼻でつき、怠そうに言う。

「ごめんやめとくわ。子供らの相手はちょっと無理や。寝たいねん」

「そうか。夜遅いんやな」

 友里は頷く。横にいる都はじっと友里の顔を見上げていたが何も言わない。

「わかった。また電話するよ」

 友里は挨拶もせずにくるりと踵を返し、そのまま階段を上がって行った。

 再び車に乗ってハンドルを握るも、友里にみごとに肩透かしを食らわされてしまい、僕はいったい何のために堺までやって来たのかわからなくなった。行先も定まらない。もううちに向けて帰るしかなかった。

 とその時、携帯が鳴る。僕は友里の気が変わったのではないか、あるいは都が遊びに行きたいとねだったのではないか? と、淡い期待を抱きつつ車を左に寄せて停め、慌ててバッグから携帯を取り出した。

 だが表示はまた静子だった。

「ああ私です。明日午前十時で予約取れました。せやから待ち合わせは朝九時半でお願いします」

「わかりました」

 たったそれだけで電話は切れた。



 翌、月曜日。朝、直也と遼太を預けて、僕は待ち合わせ場所へと向かう。師走半ばにしては暖かい日だった。街路樹の銀杏が朝日を浴びて黄金色に揺れていた。時間よりも五分ほど早く現地に着いたが、静子はすでに待っていた。半月ほど見ない間に少し痩せたように見える。

「わざわざ来てくれてありがとう」

 開口一番、静子は言った。雰囲気もあの岐阜から帰った時とは違い、随分落ち着いて見えた。僕は自分の知らない妻の顔に少し戸惑いを覚えた。

 その公証人と呼ばれる人は、岡林と名乗った。五十代半ばの少し頭の薄くなった小柄な男性だった。緊張している二人に対し、岡林公証人は語り掛ける。けれども決して事務的ではなく、物静かと言った風に感じられた。

 岡林は静子が作成したものを見ながら、パソコンで正式な書面に起こす。キーを打つ操作も手慣れたものだ。そして内容もほぼそのままであった。岡林は言う。「前もって、きっちりとこういう物を作ってくれて助かります」と。その時、静子が微かに頬を緩ませたことを僕は見逃さなかった。静子一人の力では、そんなものできはしないだろう。

 公証人はその内容の項目に沿って、一つずつ、僕たち二人に確認する。あっさりしている。悩むところも難しいところもない。出来上がった書面に署名捺印をして静子と僕のそれぞれが一通ずつ持ち帰ることになる。

 僕は思う。なぜ自分は今ここ(公証役場)にいるのか? それは二人だけの約束事、つまり二人だけの証人のいない協議離婚を静子は信用していないのだ。僕は信用されていない。きっとそれも背後にいる人間の入れ知恵に違いない。

 ここはそう言う場所なのだ。偽善者をあぶり出すための場所である。そう思うと嫌な気分になった。

 最後に静子は鞄から薄い紙を取り出した。緑色で印字された薄っぺらな紙には離婚届と書いてある。岡林は「それはこちらでは書けませんよ。お二人で署名捺印されて、どなたか証人の方二人にも署名頂いて役所に提出してください」とにやりと笑って言う。

「あ、はい。でもここで書いてください」

 静子は譲らない。僕は仕方なく岡林の見ている前で離婚届に署名捺印した。それを静子に渡すと、冴え冴えとした表情で言う。

「今日この後にでも出しに行ってきます。出したらメールで知らせます」

 離婚は結婚よりもパワーが必要であると世間では言う。だがそれは動き出すまでであり、一度動き出すと非常に機械的である。僕は思う。ああ、これは直也に障害が見つかって役所に届けに行った時のようだ。あの時は行政のベルトコンベアーに載せられたような気がした。つまり二人にとって驚天動地の大事件に見舞われ、右往左往してそれが落ち着くと、後は淡々と流れるように事が運ぶのだ。事が運ぶと最終的には、パワー=お金の式が成り立つに違いない。

その夜、静子からメールが来た。もう彼女は天宮ではなかった。

                                   続く
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