第71話 話が違う

文字数 2,211文字

 あの異常な空気の中でそれを言うことは、手負いの熊を棒で突くようなものではないか。いやそれでも言うべきだったのかもしれない。下手にごまかして延命するよりも、あの時すべてを終わらせるべきだったのか。あの人数と勢いに飲まれてしまったことは否めない。

「天宮さん、今日、ひかりの家に行ったら、もうすでに噂は広がってた。みんなの視線が恐かった。あたしは友達を裏切ったんや。信じてくれてた友達を裏切ったんやよ。あたしが天宮さんを寝盗ったってことになってるんやで。わかるやろ?」

「寝盗ったって。僕も同罪やのに」

「奥さんは、天宮さんのことは、悪くは言わへんよ。あの女がたぶらかしたんやってあちこちで言い回ってやるみたい」

「ごめん。ごめんなさい」

「ううん、わたしも悪いから。あやまらんでもええよ。けど、ひかりの家は、やめたくないねん。都も咲希もすごく好きやねん。あそこ。子供らの友達もいっぱいいてるし。せやから子供にだけは嫌な思いさせたくないねん。子供らには何の罪もないんよ」

 電話口で友里は真剣に怒っていた。

 あの時、あの場で、すべてを終わらせたら、きっと子供たちもひかりの家には通えなくなっていたかもしれない。そう考えると、悔しいが、あの場はあれでよかったのか、とも思う。しかし、もうそんな当たり前のことさえ考えられなくなっていた。

「でもせめてメールだけは許してくれへん? 当分会わなくてもええから。何とか繋がっていたいねん。友里ちゃんのいない世界はもう僕には考えられへんよ」

「ごめん、今は、無理やねん」

 そう言い残してプチっと電話は切れた。

 僕はすでに見境をなくすほど狂っていた。もうそれしかなかった。すべてを失っても、友里だけは失いたくなかった。

 彼女に会えないのなら、生きていても仕方が無いとまで思った。



 

    5



 翌日。

 話が違う、話が違う、話が違うじゃないか。僕は会社に行く道すがら、ぶつぶつと呟いていた。夕べは一睡もできなかった。友里に拒絶されたことで心底絶望していた。

 出社はしても、ただぼんやりしているだけでまったく仕事が手に付かない。僕はどんなことがあっても落ち込まない。気丈であると自負していた。なのに、どうだこの今の状態は。こんなこと生まれて初めてのことだった。

 その夜、仕事から戻ると、家には僕の母と直也だけがいた。母の話によると、静子はひかりの家から直也を連れて戻った後、母に直也を託し、一才に満たない下の子、遼太だけを連れ、そのまま家を出て行ったのだと言う。

 その行先は、静子の実家ではなく、僕の携帯を潰しにやって来た例のママ友の家らしい。精神的に落ち着くまで、しばらくその身を寄せると言うことだった。

 僕が家に戻ると、母はさっさと帰って行った。母も僕に対しては冷たかった。家には僕と直也の二人だけが残された。

 直也はテレビで〝おかあさんといっしょ〟を見ていたが、それが終わるとすぐ僕のところへやって来て言う。

「おなか、すいた」

 自分の意思表示がちゃんとできるようになっている。僕はそんなことすら知らなかった。その目は純粋で、きらきらしていて、だからこそ、僕には直視できなかった。

 時刻はもうすぐ午後七時になる。ひかりの家から戻ってから、静子も母も直也に何も食べさせてなかったのだろう。おなかがすくのも当然だった。

 状況は僕に有無を言わせず、ご飯の用意をしなければならない。それは僕の心情などまったく関係のないことだ。

 冷蔵庫を開ける。そこには僕が岐阜に逃避行する前からあった食材がまだ残っていた。とうに消費期限を過ぎた魚や、しおれた野菜など、僕はそれらをちらりと見ただけで、再び冷蔵庫を閉めた。

 何も考えたくなかった。しかし空腹の直也を放っておくわけにはいかない。仕方がないので直也を連れて食事に行くことにした。僕の都合などお構いなしに、責務はその身に降りかかる。とりあえず動かなければならない。

 翌朝もその慌ただしさは変わらなかった。僕は直也に朝食を食べさせ、出て行く用意をしてひかりの家へと急ぐ。それでも僕の脳裏から友里の姿が消えることはない。

 ひかりの家の前に着いたが、結局僕は中へ入ることはなかった。いや、入れなかったのだ。僕の運転する車が門の前を通り過ぎる。助手席のチャイルドシートの直也が不思議そうな表情で僕をじっと見ていた。

「直也、今日はお休みして、ちょっと遊びに行こう」

 信号で停まった時に、僕は直也の方を向いて言った。直也は一瞬きょとんとしていたが、車が動き出すと、やがてそれがわかったのか、両手を顔の横でひらひらさせて喜びを体現した。

「すみません、具合が悪いので休みます」

 僕は電話でそう上司に告げた。普段はまじめに仕事をこなす僕が悲痛な声で言ったものだから、上司は大そう心配してすぐに医者に行くことを勧めた。

 ここでもまた一つ嘘をついてしまった。小さな嘘、大きな嘘、嘘を重ねる度に、周りをすべて巻き込んでどんどん深みに嵌って行く。行き着くところは破滅だ。焼け死んだあの男と重なる。

 再び車を発進させる。もちろん家になど帰る気はない。かと言ってどこへ行く当てもない。この世界の何もかもが黒く重く、ただそこから逃げ出したかった。どこでもいいから逃げ出したかった。そうだ。友里のいない世界から逃げ出したかったのだ。

                                   続く
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