第51話 碧い夜の底

文字数 1,842文字

「村井さん、着いたよ。さあ降りて」

 声を掛けたぐらいでは友里の固く閉ざされた瞳は開かない。いくら呼びかけても埒が明かない。僕は後部座席のドアを開け、友里の肩を揺する。ようやく薄目を開けた彼女は、うわ言のように「ごめん、わたし、ここで寝てる」と言う。

「ここでって、車でか? あかんよ、子供らいっしょにうちでご飯食べよって言うてんねん。村井さんもおいで」

 しかし友里は返事をしない。しかたがないので先に子供たちを部屋に入れ、再び車に戻ると、友里は後部シートを一人で占拠して横になっていた。本当に車で寝るつもりのようだ。とにかく友里を部屋に連れて行かないと。

 悩んだ挙句、僕は微動だにしない友里の腕をぐいっと引っ張って車から降ろし、おぶってエレベーターに乗った。

 まるで死体をおぶっているように思えた。「どうか部屋に着くまで誰にも会いませんように」と、僕はひたすら祈っていた。

 遅いエレベーター。わずか三階なのに随分長く感じられた。額に汗が滲む。友里の吐息を首筋に感じる。死体ではなかった。そしてふくよかな左右の膨らみが背中に当たる。なんて柔らかい。ふと一瞬、僕の中に邪心が射す。なんて無防備な……。



 時刻は午後十一時を少し回った。

 子供たちは先ほどまで三人で楽しそうに遊んでいたが、今はようやく隣の部屋で仲良く眠りについていた。年長の都は直也の扱いにも手馴れたもので、ひかりの家ではいつもあんなふうに遊んでいるのだろう。さしずめ都はひかりの家ではしっかり者のリーダーだ。とても面倒見が良い。

 僕は散らかった玩具やビデオを片付けながら、静子の部屋のドアにちらりと目を遣った。

 リビングと静子の部屋は木製の引き戸で隔てられている。人の視線の高さぐらいにある明り取りの窓はカレンダーで目隠しされていて中の様子がわからない。起きているのか、まだ眠っているのか……。

 友里が倒れてからもう五時間以上が経つ。眠っているとすれば、いったいどれだけ眠るのだろうか。そういえば実家に連絡すら入れていない。きっと実家では心配しているに違いない。

 僕は不安に駆られてそっとドアを開け、薄暗い部屋に一歩足を踏み入れた。

 ――蒸し暑い。

 そう言えばあの夜も暑かった。静子と最後に体を合わせたあの夜。あれからもう一年近くになる。そしてそのベッドに今、友里がいる。

 この暑い中でも友里はよく眠っているようだ。僕はエアコンのスイッチを入れた。薄闇の中でピピッと電子音が響く。友里がゆっくりと体を起こすのがわかった。

「ああ、起こしてごめん」

「いいえ、わたし……迷惑掛けてごめんなさい」

 薄暗い部屋に友里の切ない声が響く。

「いや、いいよ。気にしないで。電気つけるよ」

 僕は手探りで壁のスイッチを入れる。パッと部屋が明るくなる。ベッドの上で上半身を起こした友里の姿が目に入る。

 ふと見ると静子の枕に友里の寝汗のシミができている。でも僕は気付かないふりをする。

「子供らは?」

「うん。さっきまで騒いでたけど、今はもう隣の部屋でみんな寝てるよ。それより具合どう?」

「うん、だいぶマシ。心配掛けてすみません」

「そう、よかった」

 開け放たれたアルミサッシを閉めようと窓際に立つ。雨は降っていない。けれど、濃い湿り気を帯びた都会の夜の匂いが網戸の向こうに感じられる。僕は少しの間、暗い窓の外を眺めていた。

「夏の匂いや。わたし、この匂い好きやねん」

 気が付けば、友里がいつのまにか隣に立ち、少し甘えたような声で言う。

「うん、僕も好きやで」

 それから二人で碧い夜の底をじっと見ていた。沈黙が二人の間に横たわる。それを破ったのは友里だった。

「あんな、天宮さん、わたし、たまにあんなふうにパニック発作になるんよ。自分でもどうしようもないんよ。びっくりしたやろ?」

「いや、そんなことないよ」

 咄嗟に嘘をついたが、僕は内心かなり驚いていた。

「天宮さん明日も朝から仕事やろ? わたしら朝、直接ひかりの家へ行きます。ほんとにごめんなさい」

「いや、遠慮せんでもええよ。ゆっくり休んで。それよりすごい汗掻いてたみたいやけど、シャワー浴びなくて大丈夫?」

「着替え持って来てないから」

「静子のスウェットやったらあるけど?」

「ありがとう。ほんならお借りします」

「シャンプーもリンスもバスタオルもそこのやつ適当に使ってくれていいから」

「うん、ありがとう」

 そう言って友里は浴室へと消えた。

                                     続く
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