第89話 子供らと、お別れしてん

文字数 2,884文字

 一週間が過ぎ、友里は整形外科病棟から心療内科病棟へと移された。

 心療内科病棟なので、友里の見守りは解かれ、僕と友里の父はようやく病院から解放された。

 飛び降り自殺未遂とその怪我の治療のための整形外科への入院、その後、引き続いての心療内科病棟への継続入院が行われた。心療内科へ移った当初、希死念慮が懸念されていたので閉鎖病室に入院していた友里だったが、やがて一般病棟に入院するようになる。

 その後退院できるまでに約二ヵ月近くもかかってしまった。その間も僕は毎日足繁く病院へと通った。看護師曰く、友里は僕の顔を見ると落ち着くが、僕がどうしても来られない日は、過食に走ったり、壁に頭を打ち付けたりする自傷行為が続いたのだそうだ。そんな時は、友里本人の希望で拘束帯を付けられる。それが僕には悲しかった。

 怪我の方はほとんど回復していたが、まだ精神的には不安定で、いつ何時、変な気持ちを起こしかねない。そのため、退院して自宅に戻ってからも当分の間注意が必要だった。

 この一連の友里の起こした騒動は、もちろん僕や友里の子供たち、そして友里の父親への負担も大であったが、一番の不利益を被ったのは当の友里本人だった。

 もちろん身体的にも精神的にもダメージを受けたわけだが、それだけではない。現在友里は夫である祐一と二人の子供たちの親権について争っていたが、今回の騒動は友里の親としての責任を大きく揺るがすものとなった。つまりこのようなことをしていて親としてきちんと子供の面倒が看られるのか? を問われることとなった。つまりは社会的なダメージであった。これは離婚調停では大いに不利となった。

 そこで友里の実質的なパートナーである僕は、親権問題を含む友里の離婚調停についてどのように受け止めているのか?

 その時点の僕には、ようやく我が子、直也と遼太に関しては、愛情のような感情が湧き上がって来てはいるが、それが血の繋がらない友里の子供たちにまで及ぶのか? と問われれば、日々一生懸命世話をしていて、情らしきものは芽生えつつあったが、まだ我が子同様に捉えてはいなかった。

 もちろん友里のことは愛しているが、その子供たちにまでは及んでいない。しかし預かる以上、責任は発生する。それはいずれ愛情に変化するものなのかもしれないが、現時点では義務的であり、まだ愛とは呼べない。

 それまで友里が、二年近くに渡って祐一との親権問題で調停を続けているのは知っていたが、僕はあえて口出しはして来なかった。娘二人を本気で我が子として迎えたいとは思っていなかったのだろう。それまではただ、養育者として、子供たちの世話だけをこなして来たのだ。

 とは言え、火の粉は当然、降りかかる。それまで友里と祐一とのやり取りをずっと傍観して来た僕だったが、ここへ来て、祐一から逆に誘拐罪で訴えると言われてしまった。

 これには僕も納得できない。誤解も甚だしいと思ったが、頭に血が昇っている人には何を言っても通じない。

 僕がいくら落ち着いて話し合いをしましょうと言っても、電話口で大声で怒鳴られるのだからたまったものではない。僕が冷静になればなるほど、余計に相手の神経を逆撫でしているように思えた。

 なぜそんなに感情的になれるのか、元々感情の薄い僕には不思議でならなかった。僕はそのこと、つまり祐一の激怒する気持ちが理解できないことを会社の友人に相談したところ、その友人は「そら当たり前や、おまえがおかしい」と言う。

 祐一にしてみれば、血の繋がった愛娘たちを、どこの馬の骨ともわからぬ男に盗られようとしているのだから。自分の子供が他人に盗られようとしているのを、ただだまって〝そういう運命なのだから〟と、指を銜えて見ている方がおかしいと言うことか。

 確かに祐一に訴えられるのは、いささか不本意なことである。けれども、もっと留意すべきことは、友里が子供たちに対して持っている『自分は母としては失格である』という思い込みである。いくら精神疾患があるとは言え、自分の子供の面倒も看ることができない、という罪悪感の矛先は友里自身に向いている。それはさらに研ぎ澄まされた刃となって彼女の弱った心を切り刻む。

 そんなある日、僕の携帯に友里から電話があった。その日、彼女は午前中、家裁へ調停の為に出向いていた。

 電話口に友里の消え入りそうな声が聞える。

「……子供らと、お別れしてん」

「なんで? なんでなん?」

「調停員の人が、もう無理やって、子供ら看るの、もう無理やって。この前、病院で飛び降りたのがあかんかったみたい」

「なんで、俺ちゃんと面倒看るやん。それではあかんの?」

「みんなにもう判子押した方がいいって言われて」

「それで判子押したんか? なんでや。あんなに子供らと別れたくないって言ってたのに」

「わたしが全部悪いんや。子供の世話もちゃんとできへん最低な母親なんや」

 友里は電話口で泣いた。僕にはいったい何ができたのであろう。子供たちに対する愛情が足りなかった。自分の不甲斐なさが、ただ悲しかった。



 祐一は、子供たちに夏休みだからうちに遊びにおいで、と言葉巧みに誘い、そして遊びに来た子供を友里の下へ返すことはなかった。

 当初の約束では、早ければ来年から、遅くとも子供たちの学校の都合を見て、都が三年生、咲希が新一年生になる来学年からということであったが、その約束はいとも簡単に破られてしまった。いや、端からそのような約束を守る気などなかったに違いない。すべては計画的だったのだろう。そして手際の良いことに、学校もさっさと転校の手続きを取り、そのまま子供たちを友里から奪い去ってしまった。

 あれほど賑やかだった僕の家は、直也と僕と友里の三人の生活に戻った。しかし今回の件で、友里の受けたショックは相当なもので、ますます病気は悪くなる一方であった。

 都と咲希の去った後、秋から冬に向かう頃から、友里はほとんど仕事にも行けなくなり、家に居てもその大半を寝て過ごすようになってしまった。

 食べる物もまともに摂らず、風呂にも入れず、処方される薬の種類と量は明らかに増えて行き、そして、この頃から悪夢や幻覚や幻聴に悩まされるようになり始めた。

 友里が〝ダーク〟と名付けていた原因不明の恐怖や不安について、その医学的な説明は以前岡田医師から受けていたが、友里本人にとって、ダークは非常に感覚的なものであったので、論理的に理解することはできなかった。

 ダークそのものについて、友里が見たまま感じたままを具体的に伝えるなら――そいつはいつも突然、友里の肩の上に小さな黒い点のように現れ、それが徐々に大きくなって、人の頭ぐらいの大きさに成長すると、その黒い丸から、どす黒い闇が外に洩れ出して、あっという間に友里のからだを取り込んでしまう。取り込まれると心は絶望感で一杯に満たされ、生きていることがたまらなく悪いことのように感じられてしまい、そこから逃れるための自傷行為へと至る。

                                     続く
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