第79話 私、好きな人ができました

文字数 2,218文字

僕は独身に戻った。その事実を早速友里に知らせようと電話をするが、やはり繋がらない。仕方がないのでメールで知らせることにした。

「電話は何度も掛けましたが繋がらないのでメールを送ります。この度、僕は正式に静子と離婚しました。連絡待ちます」

 僕は友里に拒絶されているのではないかと思った。しかし少し経って友里からの返信が届く。

「わかりました」

 たったこれだけだった。

 これが、僕が子供たちや周りの人々みんなを巻き込んで、あげく死のうとまでして成しえた結果だと思うと、一気に全身の力が抜けて、まるで胸にぽっかりと穴が開いたような気さえした。

 でも僕は諦めない。それはここまで払った代償の大きさもさることながら、やはり友里を心の底から愛していたからに他ならない。彼女の為ならどのような苦労も厭わないと思っていた。

「会いたいです。もし時間があるなら一度会って話がしたいです」

 僕は返信ボタンを押した。しばらく経って友里からの返事が返って来る。

「今は忙しすぎて会えません。それと、私、好きな人ができました」

 さすがにこのメールは胸に刺さった。岐阜の帰りに静子に「もうそちらへは帰りません」と、メールを送ったことが思い出された。あの時の静子も今の自分と同じような気持ちだったのかもしれない。同じように彼もすぐ友里に電話をする。

「もしもし、友里ちゃん?」

「うん」

 ようやく電話に出た友里。

「忙しいのはわかるけど、好きな人って何?」

「ごめん、お店のお客さんで来た人やねんけど」

「ほんまなん?」

「うん、けど好きっていうより、言うならパトロンさんやねん。好きって言った方が分かり易いって思ったからそうメールに書いたんや。けど付き合いはしてるよ。あたしもまだその人のこと詳しく知らないんやけど、ミナミとキタにお店をけっこうたくさん持ってはるみたい」

「そうなん……お金持ちなんや」

「うん、でも忙しいのはほんまに忙しくて、毎晩ラストまで仕事してるから、うちへ帰るのいつも一時回ってる。そこから家事とかいろいろやって寝るのは毎日三時とか四時やし」

「子供らは? ひかりの家は行ってるの?」

「お父さんが連れて行ってくれてる。もう豆腐屋やめてヒマやからって」

「えっと、あの、僕はどうなんのかな」

「天宮さん? 天宮さんのことは好きやで。でも今は忙しすぎてあかんねん。また時間ができたら考える。悪いけど」

「わかった、待ってるよ」

 友里は店に出ると言ってからまだ十日しかたっていない。なのにこの展開は一体何なのだ。僕は混乱して言葉が見つからない。



 それからの僕は、わからないことは、何でも人に聞き、あるいは本やインターネットで調べて、とにかく無我夢中で動いた。以前までの消極的な性格が嘘のようだった。そしてそれまでの生活は一変して育児中心となった。

 ベッドですやすや眠る遼太を見ていた。こんなにも小さくやさしい命が懸命に生きようとしている。僕はただこの命を守らなければならないと思う。不思議なもので、あれほど嫌っていた赤ちゃんの世話が嫌でなくなり、それどころか、僕の心に温かい気持ちまで生まれて来た。

 有無を言わせない事態が、子供に対する愛着を芽生えさせたのだろう。共に育てるはずであった母親はもういないと言うのに、皮肉なものだ。

 

 そして、あっという間に三ケ月が流れた。すっかり育児にも慣れ、三人の生活に規則正しさが戻って来つつあるころ、静子から連絡があった。それまでの三ケ月、静子は実家にも戻らず、小さなアパートを借りて一人で生活していた。

「私、今、一人で部屋を借りて住んでるんやけど、少し落ち着いたので約束通り、遼太をこっちへ連れて帰ろうと思う」

「そこは赤ちゃんおっても大丈夫なん?」

「大家さんには話したので大丈夫。せやから急やけど、明日、迎えに行きます」

「明日! わかった」

 いきなりである。でも拒むわけにはいかない。

 その日の夕方、僕は毎日そうしているように、今里新地の保育園へ遼太を迎えに行った。ここには三ヶ月お世話になった。短い期間であったが、いきなり乳飲み子を抱えることになり、途方に暮れていた僕にとって、この新地のお母さんは神様のような存在であった。手厳しいことも言われたが、裏表のない、いい人だったと思う。

 でも僕は、最後にもう一度叱られるのだろうと予想していた。初めてここを訪ねた時「親のエゴでこんなかわいい子供を犠牲にするんやない!」と頭ごなしに叱りつけた怖い園長さんのことだから、いきなり、今日でもう最後です、お世話になりました。などと言おうものなら、きっとまた「親のエゴで子供をやり取りするのはよせ!」と一喝される気がしていた。

 ところが、お母さんはやさしかった。僕の手に遼太を渡そうとした時、その顔を見ながらしみじみと、 「遼ちゃんとお別れするのは淋しいけどな、そうか、ママんとこへ行くか。うん、それが一番ええ。この子はほんまにおとなしい子ぉや。大事にしたらなあかんよ」と言った。きっとこの人も苦労人なんだろうと僕は感じた。

 翌日の朝、静子は三ヶ月ぶりに元の家を訪れ、その日のうちに遼太は静子の下へ帰って行った。別れはあっさりしたものだった。僕よりも僕の母が遼太との別れを惜しんで泣いた。でも僕は泣きもせず、怒りもせず、もちろん笑いもせず、粛々と静子に遼太を託したのである。 

                                   続く
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