第98話 黒い川面

文字数 2,399文字

 それから半年が過ぎた十一月下旬のこと。友里と二人で岐阜へ逃避行した時からすでに五年の歳月が経っていた。あれも十一月下旬の寒い日だった。あの時の僕は五年後の今の姿など微塵も想像できなかった。

「すみません、調子が悪いのでまた迎えに来てほしいです」

 それはいつもの友里からの救援希望メールだった。

「今どこ?」

「お店終わって新大阪。梅田に向かって歩いてるところで調子悪くなった」

 いつもながら、はっきりとどこに何時と言う答えは返って来ない。心配はしつつも、今や友里に会えることを素直に喜べない僕だった。でも放っては置けない。僕は取りあえず、新大阪方面に向かって車を走らせた。

 

 ダッシュボードの時計は深夜0時を二分ほど過ぎたところだった。僕はJR新大阪駅の辺りから、友里を探しつつゆっくり南に向かって走る。西中島南方駅前まで来てしまった。そこまでの道で、友里らしき人影は見当たらなかった。

 車は西中島ランプから夜中の新御堂筋を猛スピードで駆け上がった。一度淀川を渡ってUターンして新大阪まで戻り、もう一度友里を探そうと思った。

 梅田の高層ビル群のシルエットが対岸の青い闇の中にぼんやりと浮かんでいる。眼前の淀川は中程まで葦の生い茂る河川敷、その向こうはまるで一面をまっ黒なゴムシートで覆ったような川面が向こう岸まで続いていた。

 と、その時、携帯からメールの着信を知らせるメロディが流れた。僕は合流手前で車を左に寄せて停める。

「今、淀川を歩いて渡ってます」

 もうそんなところまで行ったのか! 友里の歩行速度を見くびっていた。僕はすぐさまミラーで後方を確認し、新淀川大橋本線に入った。

 新御堂筋は自動車専用道路だが、淀川を渡るこの区間だけ左右にきれいな歩道が整備されていて人も自転車も渡ることができる。しかし本来高速道路に準じた道なので、通行する車はどの車も相当なスピードが出ている。しかも通行量の少ない真夜中ならば尚更で、車は人が歩く歩道のすぐ横を八十キロ以上で駆け抜けて行く。

 したがって、歩道を歩く友里を探しながら、ハザードを点滅させて車をゆっくり走らせることはこの上なく危険だった。何台もの後続車がパッシングしたり、クラクションを鳴らしたりして、強引に僕を追い抜いて行く。

 ゆっくり走っているつもりだったが、それでも時速五十キロぐらいは出ていたのだろう。結局、それらしき人影を歩道に発見した時はすぐ後ろに後続車もあり、とても急には止まれない状態だった。ようやく車を左に寄せて停まれたところは、その人影を見つけてから、軽く五十メートルは行き過ぎていた。僕は慌てて車を降り、走ってそこまで戻った。

 やはり友里だった。横を通り過ぎた時には暗くてよく見えなかった。友里は暗い歩道の上に座り込んでいる。

「おーい! 大丈夫か」

 駆け寄り、友里の腕を掴んだ。ゆっくり僕を見上げるその顔は、一番調子の悪いときの顔だった。涙でメイクが剥げ落ちて、目の周りはどす黒くくすんでいる。握った手は氷のように冷たく、小刻みに震えている。僕は車まで何とか友里を運ぼうとしたが、座り込んだまま、まったく動こうとはしない。

 車をここまで戻そうと思ったが、この高速道路を五十メートルも逆行やバックなどできるわけがない。そのためには面倒だが、新淀川大橋を梅田方面に一度渡り切り、最初の出口で下りて、Uターンし、もう一度、反対向きに淀川を渡り、再び、新大阪側からUターンしてここまで戻らなくてはならない。座り込んでテコでも動かない友里を五十メートル引きずって行くよりは、まだそうした方がマシだと考えた。

「車、ここへ回すから、ほんのちょっとだけ待ってて。すぐ戻って来るから」

 友里の手は冷たく、目を閉じたまま何も答えない。僕は振り返ることなく車に向かって走った。歩道の横から、真っ暗な川面を見ながら。

 橋を渡り切り、すぐの出口から降りる。下り切ったところの鶴野町北交差点、信号は赤だった。こんな時はいつも赤だ。停まっている時間が、まるで永遠のように感じられた。「早く青になれ!」僕は心の中で叫ぶ。ようやく信号が青に変わり、タイヤが悲鳴を上げるほどのスピードで交差点をUターンして、新御堂筋を北に向い、淀川を渡った。そして西中島南方をもう一度Uターンして先ほど通った新御堂南行きのスロープを駆け上がる。

 しかしその長く大きな橋の上には見渡す限り人影はない。ただ、ずっと向こうの歩道に、ぽつんと黒っぽいシミのようなものが見えた。

 車が近付くに連れ、それが歩道の上に置かれたバッグであることに僕は気付き、その直前でハザードランプを出してブレーキを踏んだ。その途端に後続車が続け様に大きなクラクションを鳴らして追い抜いて行った。

 ねずみ色のトートバッグと、赤いエナメル靴だけが、歩道の上にぽつんと置かれていた。僕は欄干に身を乗り出して下を覗き込む。遥か下の川面は、限りなくどす黒く、何もかもすべてを飲み込みそうに見えた。

 あたりに人影はまったくなく、ただ、橋の上を猛スピードで走り抜ける何台もの車のエンジン音だけが響き渡っている。これはきっと夢を見ていのだと思った。

 人は信じ難い状況に遭遇すると、それが現実であると受け入れるのに多少の時間を要する。脳が現実か非現実かで悩んでいるより速く、僕の指は携帯電話のボタンを押していた。

「はい。百十番。どうしました?」

「あ、すみません、今、新御堂筋の南行きの歩道にいるんですが、知り合いがここから淀川に飛び込んだようなんです」

 信じられないほど、冷静に対応していることに僕自身が驚く。けれど本当は、今すぐに自分もここから川に飛び込んで友里を捜したい衝動に駆られていた。恐怖で足が震えている。

「お宅さんどちらさん? 詳しく話して」

                                      続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み