第34話 そうだ、二人目の子供を作ろう

文字数 1,990文字

    第三章   ひかりの家

 

      1

 

  1999年 夏   

 直也は四才になった。世間では世紀末であるとか予言は当らなかったとか、まあ良くも悪くもそれ相応に浮かれていたわけだが、天宮家はまだまだそんな世相を楽しむほどの余裕はなかった。

 とは言え、児童福祉施設『ひかりの家』の通所生活にも徐々に慣れ、当初、重度の知的障害の判定を受けていた直也も、徐々に快方に向かって踏み出そうとしていた。

 日ごろ、当たり前に使っている言葉の数々。当たり前すぎて意識もしていないけれども、実は言葉、それも特に物の名前を口にすると言うことは大変なことである。

 直也は、ほんの少しずつ意思を言葉に表すことを学んでいた。その様子を見ていると、言葉を自由に操ることがいかに難しいことか思い知らされる。

 さて、天宮家の最寄り駅の構内にB1サイズのJR関連ポスターが貼られている。それは風光明媚な四季折々の名勝地であったり、あるいは旬の食材を味わえる温泉宿であったりと、その内容は定期的に替わったが、ポスターの貼られている場所はいつも同じ、改札を出たところにある掲示板だった。誰もがそこを通る度に目にする場所だ。そして直也は、その前を通る度に必ず立ち止まり、それを見つめた。

 すぐに立ち去ることもあれば、静子が「行くよ」と手を引っ張っても嫌がってじっと見入る時もあった。そのポスターの一体何が直也の心を捉えているのかわからない。

 そんなある日のこと。僕と静子は、いつもよりもじっとポスターに見入る直也の様子を見て、「ああ、今日は時間の掛かる日なんやな」と、時計を見ながら半ばあきらめかけていた。

 と、その時、じっと見つめていた直也が、ポスターを指差してたった一言だけ「デンデン」と発した。

「小さい子供の言葉ってかわいいなあ」

 その日はたまたまいっしょにいた静子の友人が何気なく言った。しかし僕には彼女の言うことがよくわからない。

 でも静子は違った。直也の指差す方を見つめる。ほんの一瞬、まるで時が止まったような沈黙が訪れ、そして我に返ったように言った。

「直也、あんたそれ、わかるのん?」

「デンデン、デンデン!」

 直也はその小さくかわいい指でポスターを指しながら繰り返し言った。その様子を微笑みながら見ている静子の友人。

 僕はようやく理解した。そこには春から営業運転が開始された新幹線、700系のぞみのフロントマスクが小さく映し出されていた。

「そうや、それ、デンデンや!」

 静子は思わず直也を抱え上げ、そして人目もはばからず大粒の涙を流してぎゅっと直也を抱きしめた。

 鉄道が大好きだった直也にはそれが何であるか、あるいはそれが運行を開始されたばかりの新型車両であるということさえもきっとわかっていたのだろう。

 いつもプラレールを繋げて円形の線路を作り、ぐるぐる回る電車を飽くこと無く何時間でも見ていたのだから。でもそれを言葉にして人に伝えたのはこの時が初めてだった。

 それは確かな意思疎通だ。よその家族に比べることもはばかられるが、天宮家はこうして外に向けての遅い一歩をようやく踏み出した。



 ――そうだ、二人目の子供を作ろう。

 ある時突然に、まるで降って湧いたように僕は思った。 

 直也には将来、誰か助けてくれる兄弟が必要になるに違いないと漠然と感じたのかもしれない。あるいは〝世間一般〟の家族計画を模して、子供は最低二人と、心のどこかで決めていたからかもしれない。それは決して間違ってはいない。間違ってはいないが、浅はかだ。〝世間一般〟が裸足で逃げ出しそうな家庭だったのに。

 静子は賛成しなかった。その理由は整然としている。

 まず次に生まれ来る子が健常だとは限らないこと。ひかりの家にいる子供たちは、兄弟そろって障害を持つ子がとても多い。一人目が障害を持っていればその次もその可能性は高い。

 そしてもし、またそんな子が生まれたとして、いや、百歩譲って健常児だとしても、直也に対する今までの僕の育児態度を鑑みて、「コヤツは絶対に頼りにならない。次もまた私一人に大きな負担が掛かるはずだ」そう思ったに違いない。

 実際そう思われても仕方がない。それは至って冷静な判断だ。そんな静子に比べて僕の感覚は〝世間一般〟から相当ズレているようだ。

 その時の僕は、そんなことはお構いなしに、まるで何か神秘的なものに操られるように二人目を作らなければいけないと思っていた。神秘的? 否、それは僕の暴挙を正当化するための苦し紛れの言い訳だった。とにかく、静子の困惑も省みず二人目の子供を作ろうと言ったのは僕の方からだった。そんな僕に静子は真剣に尋ねる。

「ほんまに、ちゃんと協力してくれる?」

「当たり前や!」

 静子の不安な気持ちを拭い去るように僕は答えた。
                                続く
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