第66話 もう、そちらへは、帰りません

文字数 2,469文字

肉体が限界を越えても、僕は友里を強く抱きしめて離そうとはしなかった。そんな僕の頭を撫でながら友里はやさしく「こんなあたしやのに、いいの?」と聞く。

 僕は友里を抱きしめながら、声を上げて泣いた。涙がいっぱいこぼれた。今まで、感情を表に出すことすらまともにできなかった僕が、今、大声で泣きながら友里にその思いをぶつけていた。そんな僕に友里は、母のように、やさしく頭を撫でながら頬に口付けして、「ありがとう」と言った。

 僕の空虚だった心が、ようやく少しずつ満たされ始めていた。

 僕は友里の乳首を赤ん坊のように吸う。友里が僕の頭をやさしく撫で続けた。もうこのまま二人でどこかへ消えてしまいたい。家に戻りたくない。戻るぐらいならこのまま死んだ方がましだ。もう自分も静子も、すべて、偽ることはやめよう……そう思った。

 ――ああ、そう言うことか。

 ふいに僕の脳裏に浮かぶ。いくら理解しようとしてもできなかったあの上司の自殺。死して尚、他人から蔑まれ、後ろ指を指されていた気の毒な男――それはまるで難解なパズルが一つのキーワードであっさりと解けて行くようだ。

〝死〟と言う最大の不幸も、最高の幸福に変えてしまう魔法。それが〝情愛〟だと思った。

 長い間、頭で考えて悩み続けて来た、「生と死の意味」という命題が、心で感じることで、いとも簡単に僕の中にすっと入って来た。

 生まれてたった一日で死ぬカゲロウも、七年間も暗い土の中に居て、たった七日間だけ地上で愛の歌を謳歌する蝉たちも、あるいは、交尾の後で雌に食い殺される蟷螂も、それらは、みなすべて、幸せなのだ。

 つまりは、誰かほかの人を心から愛することができれば、それで幸せなのだ。あの男にとって〝死〟は自分の思いを全うした後にくっついてくる薬の副作用みたいなものだったのだ。

 簡単なことだった。あの男がにっこりと笑っているような気がした。

 ただあの男が死して尚、非難の的になっていたように、それは人から見れば自己満足以外の何物でもない。ましてや美化されることなど決してない。

 二人が傷つくのは自業自得だが、それに巻き込まれてズタズタにされる人々の存在をまったく無視している。だがこの時点の僕にはそんなことを考える余裕などまったくない。

 僕は友里のやわらかい乳房から顔を上げ、バッグをまさぐり、携帯を取り出して、メール画面を開く。新規作成。to静子。



――もう、そちらへは、帰りません

 

 たったそれだけだった。僕はあっさり送信ボタンを押した。まるで夢の中での出来事みたいに実感がなかった。夢の中? いや、違うだろう。心の中では、悪い冗談を放った時みたいに、「えへへ」と、ほくそ笑んでいた。

〝えへへ〟は電波に乗り、無慈悲な刃となり、家で帰りを待つ静子に向かって飛んで行く。僕にはその刃の光跡が見えるような気がした。それは寸分の狂いもなく静子の心に突き刺さるだろう。

 後悔はしなかった。決して大げさでも何でもなく、後悔することは、自分自身を否定することだと思っていた。つまり僕は自分に陶酔していたのだろう。友里とこのままいっしょにいることができないのならば、この命などどれほどのものであろうか。

 しかしながら、もう一方で、欺くことにほとほと疲れた自分がいたことも確かだった。この旅に出発する時に、僕は家を出た時点ですでに心の中には漠然と存在していたものだ。

 友里と共に過ごすうちに、漠然としたものから、はっきりとした意思に変わった。ただそれだけのこと。必然だ。もう戻れない。どこへも。

 天井のランプが琥珀の光をぼんやりと落とす中、何も知らぬ友里が、裸のままで携帯を握り締める僕の様子をじっと見つめていた。

 五分も経たぬ間に、静子からメールではなく直接電話がかかって来た。そして僕は、悪びれた様子もなく、受話ボタンを押し、落ち着いて耳に当てた。自分自身、こんなに冷静でいられることが不思議だと感じていた。それは開き直りではない。まるで何か大きな力に守られているような錯覚さえ覚えていた。

「はい。もしもし」

「帰れへんてどういうこと?」

 震える声。低いトーン。何とか冷静さを保とうと懸命に感情を抑えている。電話の向こうに、その狼狽した静子の顔が見えたような気がした。冗談ではなかった。

「今、どこなん? 誰かといっしょにいてるの?」

「…………」

「わかった! 村井さんやな!」

 どうしてわかったのだろう。もしかしたらとっくに知っていたのではないか? 僕はゾッとした。

「何で黙ってるの? 何とか言いいや」

「ああそうや」

 それからほんの僅かな沈黙の中で静子の怒りは爆発した。もう抑えられない。

「今すぐ帰って来て! ええから、帰って来て!」

 静子は同じことを電話の向こうで繰り返し叫んでいた。もう泣いていたのかもしれない。

 本気で帰りませんと送ったつもりなのに。

 僕の意思はまったく聞き入れられていない。しかしそれは当然のことだ。そんな非常識がまかり通るほど世の中は甘くない。

 あまりにも軽率過ぎた。だからもう何も聞かずに終話ボタンを押した。行き場を失った静子の怒鳴り声が虚しく湿った空気の中で余韻を残して消えた。

 大変なことが今起こっているのだ。僕はなんとなく理解していた。しかしそれは現実ではなく、まるでテレビドラマか映画のようにまるっきり絵空事のように感じられた。

 僕は自分の手で今まで長い時間をかけてこつこつ築き上げた、信用も、家庭も、社会的地位も、そのメールたった一つで、自ら、すべてを完全に破壊してしまった。

 プチっといきなり電話を切られた静子の方は、はいそうですか、と納得なんかできるわけはない。寝耳に水もいいところだ。

 静子の怒りは再び僕の携帯にたどり着いて、すぐに耳障りな着信音を鳴らした。しかし僕はちらりと画面を見遣っただけでもう出ようとはしなかった。

 ――帰れない。

 あそこはもう自分の家ではない。このまま友里とどこかへ消えたかった。

                                     続く
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