第68話 殴るなら、俺を殴れ!

文字数 2,592文字

    4



 部屋の前に着いた。覚悟を決めてガチャリとノブを回す。鍵は掛けられてはいなかった。

 するとすぐに奥から「帰って来たわ」の静子の低い声が聞こえた。玄関のタタキには、たくさんの靴 

 ――スニーカー、パンプス、ミュール、サンダル、など、女物の普段履きが、ぎっしりと並んでいた。

 部屋に入ると、皆が一斉に二人の方を見る。いったい何人いるのだ?

 静子と近藤、それと静子が緊急召集を掛けたのであろう、ひかりの家のママ友たち。その中には僕の知らない顔すらある。そして極めつけは近所に住む実母の顔まで。

 母も静子の呼び出しに応じて駆けつけたのだろう。全員、女、女、女、総勢約十人がぐるりと車座になって今か今かと僕たち二人の帰りを待ち構えていたのだ。

 僕は思った。車座と言うよりこれは戦の〝陣〟だ。まるで万全の布陣が引かれているようだ。修羅場などという生易しいものではなく、これは女たちの戦に違いない。

 短時間にまあよくこれだけ集めたものだ。彼女らは静子の電話一本でたちどころに集まったのだろう。その恐ろしいまでの連帯感。凄まじい気迫。僕はひかりの家の鉄よりも硬い結束力をまざまざと見せ付けられた思いがした。この連中を怒らせてはいけない。――が、時すでに遅し。

 まわりはすべて敵。皆一様に厳しい視線を向けていた。そして僕と友里はその陣の中央、被告人席に座るように促された。

 僕が座ろうとしたその時だった。それまでずっと堪えて来た静子の怒りが、無表情な友里の顔を見た途端に爆発した。

 静子はさっと立ち上がり、いきなり友里に掴みかかった!

「この売女ぁ!」

 この期に及んでも僕はなぜか冷静だった。女は男に浮気されたらまず相手の女に怒りが向くとどこかで聞いたことがあるが、まさにその通りだと思った。

 大声で怒鳴りながら静子の平手が友里の頬に飛ぶ。

 一瞬の出来事に皆が固まった。頬を押さえて倒れ込む友里。すぐにその場に居た皆がどっと立ち上がり、殴りかかる静子を止めたので、二発目寸前のところで友里は救われた。

 次の瞬間、僕はさっと友里を庇いながら静子に向かって叫んだ。

 ――殴るなら、俺を殴れ!

 火に油を注ぐとはこのことだ。抑制の効かなくなった静子の怒りの矛先が友里から僕に向かった。強烈な静子の平手が僕の頬に飛ぶ。僕は顔を押さえてよろける。それでも僕はひるまずに友里を一生懸命守ろうとした。何度か背中を強く叩かれたが、僕は友里を庇って決して離さなかった。

 皆、友里への攻撃は止めたのに、僕への攻撃は止めない。誰一人としてだ。まるで計算されているのではないかと僕は思った。

 その場に居た直也が静子の大爆発に恐れおののいて寝室へと猛ダッシュで逃げる。それを見た近藤がすぐに直也を追いかけてなだめる。

 散々僕の背中を叩いた後、「うわあぁぁん!」と、静子は声を上げてその場に泣き崩れた。その一部始終を見ていた母がぽつりと言った。

「わたし、この齢になって、こんな修羅場また見るとは夢にも思わんかった」

 皆が一斉に年老いた母を見た。僕は知っていた。母はかつて父の愛人だったこと。当時父には妻も子もいた。その後母は父と結婚した。いわゆる略奪婚だった。そして僕が生まれた。それはもう何十年も前の話だ。だが今、その年老いた母の目の前で同じことが起こっている。

「あんた、名前、何て言うの?」

 母は静かに尋ねた。それまで大声で泣いていた静子が急に黙って振り向く。一瞬時が止まった。

「村井友里です」

 友里は年老いた母の顔をじっと見つめ、静かに言った。

 母の表情が見る見る驚愕に変わる。

「あんた、ゆりさんて言うんか。〝あの人〟と同じ名前や。こんな偶然ってあるんやな」

 まわりの女たちには意味がわからない。ただ黙って聞いていたが、僕にはすぐにわかった。あの人、ゆり、は、父の元の奥さんの名前だ。自分がその人の下から父を奪ったのだ。それっきり母はもう何も言わなかった。     

「こんなとこにはもうおられん! 行こう!」

 僕も黙ってはいなかった。友里の手を引っ張ってその場から立ち去ろうとした。が、その時、近藤が二人を引き止めた。

「まあまあ、ちょっと皆さん、冷静に、冷静にね」

 近藤にたしなめられて、僕と友里は、再び皆の前に座らされた。

「当たり前の話ですけど、お二人、金輪際もう会わないと約束できますか?」

 近藤が聞く。僕たちの口は重く、うつむいたままだ。

「それが、その約束が守れるなら、しずちゃん、一回だけ私に免じて耐えることができますか?」

 静子はあれからずっと顔を両手で押さえて泣いている。

「もしそれができないのなら離婚も仕方ない」

 近藤が静かに言った。と、その時、奥の部屋で直也の、言葉にはならない叫び声が聞こえた。毛布を被ってわけのわからない叫び声をあげている。自閉症児独特の唸り声だった。静子の怒りに対して、もっとも敏感に反応するのは、やはり直也だった。

 その時近藤がさっと立ち上がり、再び寝室へと向かった。毛布を被って叫んでいる直也の背中を撫でながらやさしく言う。

「直也、大丈夫やで、ママはあんたのことを怒ってるんと違うよ。大丈夫や」

 それでも直也は「あーあー」と大声で恐怖を訴えている。よほど怖かったのだろう。

「こんな子がおるのに、あんたら一体何を考えているんや!」

 近藤が直也を抱きかかえて戻り、僕の方を向いて真顔で叱った。普段滅多に感情を表に出さない近藤が、この時は心底怒っていた。

 僕はその場に座り込んだ。僕にとっては静子の暴力よりも近藤の言葉の方がよほど効いている。近藤はさらに続ける。

「自分たちの欲望のために、奥さんを傷つけることは最低なことやと思うけど、子供を悲しませるのはもっと最低なことです。この子には何の罪もない」

 静子がようやく顔を上げた。目が真っ赤に腫れている。近藤は抱いていた直也をそっと静子の下に返そうとした。

 静子は直也を自分の手に抱え上げ、ぎゅっと抱きしめる。そして鼻をすすりながら言う。

「直也、ごめんな。あんたを怒ったんと違う、怖い思いさせてごめんな」

「天宮さん、もう村井さんとは会わないとこの場で約束してください。村井さんも」

 近藤の強い口調は続いた。この場を収めるには、二人は同意するほかはなかった。

                                     続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み