第55話 孤独からの解放

文字数 2,412文字

 バルコニーを叩く雨音はもう聞こえない。サッシの硝子窓が白く曇り始めていた。僕はその前に立ち、少しだけ窓を開ける。生温く湿った夜の空気がじんわりと肌に纏わり着く。思いのほか部屋は冷やされていたのだと気付く。

「冷房少し緩める?」

 僕は振り向いてベッドに腰掛けていた友里に問いかける。

「うん……」

 サッシ横、壁のリモコンの設定を二度ほど上げ、そしてそのまま再び僕は深夜の戸外に目を向けた。よく見ると、向かいの常夜灯の光の中に、霧雨が映っていた。雨はまだ止んだわけではなかった。

 その時、背後に座っていたはずの友里が、いつのまにか僕のすぐ右横に立ち、そして同じように暗い外を見ながら呟いた。

「明日も雨かな」

「うん、たぶん」

 少しの沈黙の後、再び友里の声が寝室に響く。

「天宮さん、あそこに来てる人ってな、天宮さんも含めてみんな大変やけど、伊藤さんは特別やった」

 僕はそれがひかりの家のことだとすぐ理解した。

「わたしが聞いた話ではな、あの子、子供の頃は孤児やったんやて」

 僕は友里の方を見る。でも彼女はずっと前を向いたままで窓の外を見ていた。それはまるで窓硝子に映る自分に話しかけているように見える。

「昔、あの子の家は親子三人で暮らしてやったらしいねんけどな、お母さんはまだ伊藤さんが幼い時に病気で亡くなって、ほんでお父さんは漁師やってはったらしいねんけど……。あの子がまだ中学一年の時に漁に出て行ったまま帰って来なかったんやて」

「ニュースとかドラマでたまに耳にするけど、実際にそう言うことってあるんやな」

「うんあるよ。わたしもそれ聞いた時、なんか怖くなった」

「身寄りとかは?」

「血の繋がった親戚はいなかったみたい」

「え? ひかりの家に伊藤さんの手紙持って来はった人は?」

「あの人はたぶん血は繋がってへん。親戚とかと違うと思うよ」

「確か近藤さんそんなこと言ってはったと思うけど」

「ううん、あの子から聞いたんやから。お父さん亡くなってから一人ぼっちで住んでたんやて」

「中学生の女の子が?」

「うん、そう言うてた」

「どうやって生活してたん?」

「お父さんが遺してくれた保険のお金で暮らしてやったみたいよ」

「でも子供が一人で、それは無理やろ」

「うん、それで身寄りもなかったから役場の人から何回も施設に入るように言われたらしいけど、どうしても家を離れるのが嫌やったみたい。それでな、暫くたってから、亡くなったお父さんの働いてたとこの網元さんが養子として伊藤さん引き取りたいって申し出があったんやて」

「来てたって言うのはそこの人かな」

「たぶん。でもな、その網元言うのんが最低最悪やった。騙されたって。いつかきっと復讐したるって伊藤さん真剣に怒ってやったよ」

「復讐?」

「うん、実はそのお父さんが亡くなった海難事故でその網元も船を失ったり、ほかにも大きな赤字出したりして、その船の借金返済やとか、保険で全額出なかった人らの補償もせなあかんし、もう破産寸前やったらしいわ。ほんでな、網元の奥さん言う人がな、最初はえらいやさしかったらしいねんけど、その内、伊藤さんのお父さんの保険金、養育費や言うて全部取り上げてな、おまけに最悪なことにそこの網元の弟にずっと性的な嫌がらせまで受けてたんやて」

「そこまでされてどこにも訴えへんかったんか?」

「彼女の味方なんかその街では誰もおらんかったらしい」

「警察とか役所とか」

「ううん、その網元の社長って漁協のえらいさんでその辺りではすごい力持ってたって。けどその変態弟に何度も性的な嫌がらせされてどうしても我慢できなくなって警察に行こうとしたらしいよ」

「でも地元の有力者やから握り潰された?」

「それもあるかもしれへんけどな、伊藤さん、自分で訴えるのをやめたって言ってやった」

「脅迫でもされてたんか?」

「違うよ。あの子は脅迫なんかに負けるような子やない」

「じゃあなんで?」

「恩を感じてたんやて。その網元の社長の顔を立ててたんよ。伊藤さんがまだ生まれる前にホームレス同然でその街に流れ着いたお父さんに仕事と住むとこ世話したんやて。そのことをお父さんが生前、伊藤さんにずっと話ししてたらしい。あの社長には足向けて寝られへんって。それに小さい頃は伊藤さんもよくかわいがってもらったって言ってやった」

「けど、ほんの十五、六の女の子が、親の恩義のために毎日じっと耐えてたのか」

「うん。けどな、すごい人間不信になったって。それでも、そんな酷い目に合わされても、学校出るまでずっと我慢してやったみたい。それで高校卒業したらすぐ大分の田舎からこっちに出て来たんやて。本人はあっけらかんと『逃げて来ましたー』って言ってたけどな」

「それ誰でも人間不信にもなるわ。伊藤さんのその強気な態度は、ほんまは淋しさを隠すためやったんかもな」

「うん。わたし思うねんけど、あの子きっとお父さん亡くしてからずっと孤独やったんやと思う。せやから自分と血の繋がった家族がほしかったんと違うかな。何にも知らん人からは、不倫した挙句に子供ができた時、バカ女が私生児作ったとか、生まれて来る子供がかわいそう、子供は親のペットと違うとかな、えらいボロクソに言われたって話ししてやった」

「けど、たとえ人から何を言われても、翔一くんを身篭った時、伊藤さんきっと嬉しかったと思う。ようやく孤独から解放されるって思ったんとちがうかな。子供がな、この世界で自分を必要としてくれるたった一人の存在で、同時に自分の存在意義を確認できるたった一人の人間やったんや。彼女にとって生き甲斐であり未来の幸せを約束してくれる存在やと信じてたんや」

 言い終えて、僕はちらりと友里の方を見た。相変わらず友里は正面を向いたままだ。窓硝子に映る友里の顔。どこか一点をじっと見つめるその眼差しは厳しい。僕は少し怖かった。

                                       続く 
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