第22話 脳ヘルニア

文字数 2,292文字

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 友里が都の姿を見たのは、もう随分と前のことのような気がしていた。友里には時間の感覚すらなくなっているようだ。

 最後に見た都は、あれほど酷かった嘔吐も治まり、とてもよく眠っているように見えた。しかしそれは眠りではなく重篤な意識障害であると後に医師から告げられたが、その時の友里にはただ眠っているようにしか見えなかった。

 その後、友里は早々にエマージェンシールームを追い出されて、今は良く眠る咲希を抱きかかえたまま廊下の長椅子に座っていた。

 通路の突き当たり、緊急受け入れ口から見える向こうの景色はどんよりとした鉛色で、朝からずっと降り続く小糠雨が目に映るすべてをしとどに濡らしていた。どうして自分はこんなところでぼんやり座っているのか、我が子にとんでもない事が起こったことでさえ、共すれば忘れてしまいそうだった。

「おい」

「…………」

「おおい!」

 友里はその声に気付いて顔を上げると、眉間に皺を寄せた三郎が目の前に立っていた。

「お父さん。なんでここ、わかったん?」

「なんでて、家、行ったんや。びっくりしたで、悲鳴聞こえて電話切れたからな! ほんならマンションの大家さんが、都が救急車で運ばれた言うて教えてくれはったんや」

「それだけでここわかったん?」

「わかるかいな! 調べたがな。消防署に聞いて。おまえ連絡せんかいな!」

「ごめん、急やったから」

「都は、都はどないやねん?」

「頭、強く打ったみたいやねん」

「ええ? 頭を? せ、せんせは何て言うたはんねん?」

「まだMRIやとか色々詳しく検査せなわからへんから、ここで待っててくださいって」

「そうか……」

 先ほどまで眠っていた咲希が驚いて目を覚ました。

「ほんで旦那は?」

「昼から連絡取れへんねん。ずっと電話してるんやけど」

「何しとんねん、こんな時に! しょうもない奴っちゃなあ」

 三郎は苛立ちを隠せない。もともと三郎は友里の結婚に猛反対していた。子供ができてしまった以上認めたくはないがそうせざるを得ない状況だった。祐一のことを未だにまったく信用していない。

 三郎の怒りが友里の心の中に棲んでいる魔物を呼び覚ます。幼い頃に封印して来た三郎に対する恐怖の記憶が蘇る。

「ああ、お父さん……」

 友里は今にも泣き出しそうだったが、口にせずにはおれなかった。

「お父さん、わたし」

「ん?」

「ううん、何でもない」

 それきり口を閉ざした友里は、うつむいてじっとその左手を見つめていた。その指先が僅かに震えていることを三郎は見逃さなかった。

「何でもないって。あ! お、おまえ、まさか」

「え?」

「やったんか」

「!」

 その時、ガチャリとドアが開いて看護師がやって来た。友里は震え上がった。

「村井さん」

「はい」

「先生から説明がありますので中へお入り下さい」

 友里は思った。この人はどうしてこんなにも淡々と物事を伝えられるのだろう。今は抱きかかえた咲希の温もりだけが彼女の精神をかろうじて支えていた。

 部屋に入り、友里はちらりと奥を覗く。ガラスに仕切られた救急処置室のベッド上にはまだ都が眠っていた。わけのわからないたくさんの線や管に繋がれて、それはまるで人形のように見えた。

「どうぞこちらです」

 看護師に案内されたすぐ隣の部屋は、部屋と言っても大きなエマージェンシールームの片隅をパーティションで仕切っただけの簡易なスペースだったが、一応パーティションに扉があり、看護師はその仮扉をコツコツとノックした。プラスチックの安っぽい音が響く。

「先生、村井さんがお見えになりました」

「はいどうぞ」

 友里と三郎は恐る恐るその仕切りの中に入った。一瞬、そこは何もかもが白い世界のように思われた。おそらく白い壁と白い天井に加え、正面のレントゲン写真の投影機から漏れる蛍光灯の冷たい灯りが、その場の空気まで白く染めているような錯覚に陥らせたのだろう。それは清潔さを通り越して友里の不安をさらに煽った。

 その医師はまだ若そうだ。たぶん三十才前後か。しかし目を細めてCT写真を見つめるその眼差しは、医者と言うよりも熟練の職人のそれに近い。国立病院の第一線で執刀しているのだから、かなりのやり手であることが推測された。近寄り難い雰囲気だ。友里は臆して言葉が見つからない。

「せんせ、どないなんですか?」

 先に口を開いたのは三郎の方だった。なかなか声を発しない医師に痺れを切らした三郎が詰め寄った。友里の父はかなり短気な性格だ。ようやくゆっくりと医者は振り向き、そして険しい顔で言った。

「難しいです」

「難しいて、どういうことなんですか、せんせ」

「ここ見てください」そう言うと医者は写真の一部をペン先で指し示した。

「ここ、白くなってるでしょ。これ血腫です」

「血腫?」

「ええ、簡単に言えば血の塊です。ここ、頭蓋骨と、この線の内側、脳との境目、この凸レンズみたいな形をした白い部分。ここに血の塊があります。硬膜外血腫と呼んでいますが、こっちの写真見てください」

「それは?」

「これは一時間前の写真。明らかに大きさが違う。大きくなっているのがわかりますか?」

「はい……」

「この血の塊がね、脳を圧迫しています。医学用語で頭蓋内圧昂進と言いますが、これ以上大きくなったら、行き場のなくなった脳がね、脳幹を圧迫することになります」

「ほんならどないなるんです?」

「脳幹は生命維持に関わる非常に重要な場所です。つまり脳があるべき場所をはみ出して圧迫することになる。それを脳ヘルニアと呼びます。いわゆるヘルニアです。脳の」

                                       続く
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