第49話 遺書

文字数 3,006文字

 静子は本を読んでいた。姓名判断という表紙が見えた。僕がベッドに近付くとゆっくり顔を上げ、「早かったな」と一言だけ言った。「おかえり」でも「ご苦労さん」でもなく、「早かったな」と言う静子の表情にはまったく感情が感じられなかった。

 まるですべてを見透かされているような気がして、僕には逆にそれが怖かった。

「ああ、式、終わってそのまま来たから」

「そう。ちゃんと清めて入った?」

「ああ。もちろん。さすがにそれはするよ」

 僕は多少の笑いを誘おうと言ったつもりが、静子はやはり無表情だった。彼女は無表情で怒る癖がある。自分が不浄な体で神聖な場所に舞い戻った非常識を責めているのか、それとも……。

「あの、なんか怒ってるの?」

「なんで?」

「すごく機嫌悪そうに見える」

「そう? あのな、お尻が痛いねん」

 そう言いながら静子は少し照れ臭そうに笑ったが、僕は笑えなかった。静子とは、少々下品な下ネタや、非常識な馬鹿げた話題を話し合っても笑い飛ばすようなざっくばらんな間柄だ。でもこの時僕は小さなわだかまりを感じていた。



 それから三日ほど経った夕方。僕はいつも通り直也を迎えにひかりの家まで行った。

 見上げる空は濃淡のない灰色一色で今にも雨が降り出しそうだ。大阪もいよいよ梅雨に入ったらしい。僕は朝から軽い偏頭痛に悩まされていた。梅雨の時期はいつもそうだった。気分もすぐれない。でもひかりの家に着いて、玄関で友里のスニーカーを見つけた時、僕の沈んでいた心が少し軽くなった気がした。

 と、その時。僕が来るのを待ち構えていたように、奥から友里が駆け寄って来た。

「天宮さん、大変や!」

「どうしたん?」

「伊藤さんが、自殺した」

「え」

「わたしも今コンちゃんから聞いたとこなんやけど、もうびっくりして」

 僕は頭の痛いのも忘れて、慌てて近藤のところへ向かった。

 近藤の説明によると、事の次第は次の通りだった。

 告別式も滞りなく済み、その翌日の昼のこと。郷里の大分から翔一くんの遺骨の引き取りと葬儀の手伝いに来ていた親戚の女性に、伊藤さんは、「ちょっと買い物をして来る」と言い残して車で家を出た。

 しかしいくら待っても伊藤さんは帰って来なかった。そんな時、その親戚の女性は翔一くんの遺骨の横に真新しい一通の封書を発見した。

 不思議に思った彼女が、恐る恐る中を確認してみると、なんとそれはひかりの家に宛てた伊藤さんからの遺書であることがわかり、彼女は慌てて警察に捜索願を出した。

 そして丸一日経った翌日の夕方、伊藤さんの家から十キロほど離れた千早赤阪村の府道わきの私有地に、ずっと違法駐車している見慣れない車があると、その土地の持ち主より通報があった。 

 知らせを受けた警察官が確認に向かったところ、乗り捨てられてあった伊藤さんの白いフィアットを見つけ、そこから百メートルほど入った林の中で伊藤さんの遺体を発見した。

 死因は縊死いし。つまり首吊りによる自殺だった。現場に遺書らしきものはなかったので、やはり翔一くんの遺骨の横で見つかった手紙が遺書であると断定された。

 検死の終わった遺体は、喪主も遺族もいないために通夜も告別式もせず、すぐに火葬されて翔一くんの遺骨と共にその親戚の女性が郷里の大分に連れて帰ることになった。

 余談になるが、その親戚の女性は、翔一くんを亡くした伊藤さんを再び郷里に戻ることを勧めに来ていたのだと言う。

 今日の昼にその親戚の女性と言う方がひかりの家に挨拶に来られた。その時に、伊藤さんからの手紙もいっしょに持って来られた。

 それはとても衝撃的な内容であったが、協議の結果、近藤はその手紙をひかりの家に通っている保護者たちに紙面を通じて公開することにした。

 それは保護者たちの間でも大変衝撃的な内容であったことは間違いなく、ひかりの家側が公開に及んだことに対して賛否両論、様々な意見が飛び交い物議を醸していた。

 しかしその遺書の内容から、公開することが伊藤さん本人の強い意思でもあったので公開に踏み切った。『ひかりの家便り』を引用してここに書いてみたい。

 

 以下、伊藤さん本人の手紙(原文のまま)

 

   近藤様、ひかりの家のご家族の皆様へ

 

  ごめんね、翔一。

 私が翔一をこの手に掛けました。私は罰を受けなければなりません。

 あの朝、私がシャワーを浴びている時のことでした。翔一は、早朝に入れたエンシュアが逆流してそれを誤嚥してしまいました。吸引してほしかったのでしょう。翔一は私を懸命に呼んでいたようです。でもわたしはいつものようにシャワーを浴びていました。たぶん時間にすれば十分にも満たないほんの僅かな間でした。

 浴室から出て来た時、車椅子から転落して床で苦しんでいる翔一を見つけました。おそらく翔一が暴れたか、あるいは何かのはずみで転倒してその反動で胃から逆流してしまったのでしょう。私は、慌てて駆け寄ると、翔一は眼をほとんど閉じ、ほんの少し開いた瞼は白目をむいて、ひゅうひゅう喉を鳴らしながら一生懸命空気を吸おうとしていました。

 今ならまだ間に合う。私は吸引しようと、慌てて翔一に触れたその瞬間、翔一は僅かに残った力で、いやいやと首を左右に振りました。それはいつもの拒絶の合図でした。七才の翔一の必死の意思表示を目の当たりにした私は、その場で動けなかった。手が出せなかった。これ以上翔一を苦しませることはできません。もう十分です。この子は十分苦しみました。おそらくこの先もずっと苦しむ翔一をこれ以上見ていることはできませんでした。私にそんな権利があるとは思わないけれど、もう解放してあげたいと思いました。

 徐々に翔一から命の光が薄れて行って、やがて動かなくなりました。

 警察の方に正直にすべてをお話しました。警察の方は私にこう言いました。これは事故や。あんたはやるだけのことはやった。すぐには無理かもしれへんけど、あんたはまだまだ若い。これからいい人にもめぐり合うこともあるやろう。お気の毒やけど息子さんのことは諦めて、新しい未来に向かってしっかり歩いてください。いいですか? これは事故やから自分を責めたらあかん、と。

 そんなこと到底私には納得できません。翔一がこんな不自由な体になってしまったのも元はといえば私に責任があります。ですから翔一ひとりで逝かせるわけには行きません。この子はとても弱く、私を必要としています。警察が私を裁かないと言うのであれば私もいっしょについて行こうと思います。どこまでもいっしょに行こうと思います。翔一と私は一心同体です。

 近藤さんを初め、ひかりの家のたくさんの方々には感謝してもしきれません。また、このような私のわがままのために皆さんにご迷惑がかかってしまうことを心よりお詫び申し上げます。

 そして最後に、こんな私が言うのもおかしいですが、私と同じような境遇で苦労なさっているひかりの家の方たちに、どうか私のような誤った道を歩まないことを心からお祈りしております。 

 私と同じような選択を迫られて岐路に立たされた時、どうぞ私と翔一のことを思い出して、反面教師にして下さい。こんな母親にだけは絶対にならないと。どうぞよろしくお願いします。

                                伊藤京香



                                   続く
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