第102話 過去の扉の向こう

文字数 1,402文字

六時間にも及んだ手術はとりあえずの成功を見た。膵臓の約半分と十二指腸も切除された。入院中、僕はほとんどずっと眠っていた。術後の痛みと薬のせいで夢とうつつの間をずっと彷徨っていたのだ。

 懐かしい夢を見た。僕が子供のころに住んでいた家の夢である。その家は木造二階建てで大きくて、狭い路地の突き当りに建っていた。今はもう取り壊されて、その跡地にきれいなマンションが建っている。だからもう夢でしか行くことのできない場所である。

 夢の中で僕はその家に帰ろうとしていた。通りの角を曲がって狭い路地に入る。突き当りに縦格子の入った引き戸が見えた。その片側が開いている。そこから玄関の奥が見える。薄暗い奥に二人の人影が見えた。一つは小さな影。そしてその後ろには小さな影を見守るように立つ大人の人影。

 あれは……。僕が帰って来たことを知って、小さな人影は僕を出迎えようと、自分の背丈より少し低い廊下から上がり框に後ろ向きに一生懸命に降りようとしている。

 まだ幼い遼太だった。そして玄関の奥で見守るのは静子だ。僕は慌てて中に入ろうとしたその時、目の前の引き戸はガラガラと閉まった。僕は開けようとした。けれども、その扉は堅く閉ざされてびくとも動かない。格子の擦り硝子の向こうで、遼太が僕に向かって何か話し掛けているのがわかる。しかしその扉は、僕がどんなに頑張っても動かない。

 声が聞こえる。小さな遼太の小さな声が聞こえる。    

「おとうさん。おとうさん」

 一生懸命に小さな遼太が僕を呼んでいた。

「遼太! 遼太!」

 彼も大声で呼び返した。でもどんなに叫んでも、叩いても僕の声は届かなかった。あの開かない扉は、昔、僕自身が閉ざしてしまった過去の扉に違いない。ああそうだ。取り壊された家も、二人も……全部、過去の扉の向こうにある。

 ――そこで目が覚めた。

 目が覚めると、自分が病院のベッドで寝ていたことを思い出した。淋しい夢を見ていたのだ。

 と、その時。遼太の、僕を呼ぶ声が確かに聞こえる。

 ふと横を見ると、静子が僕を見ていた。静子と、直也と、遼太と、静子の父の四人が、心配そうに僕を見ていた。

「おとうさん」

 遼太が呼びかける。

「おとうさん、大丈夫? って言うんやろ」

 静子が遼太に教える。

「父さん」

 直也が声をかける。

 許してくれるのか? こんな自分を……。僕はまだ夢を見ているような気がした。でもこの夢はさっきの夢よりもずっと温かい。 

 あんまり温かいので、涙がこぼれてしまう。僕が自ら封印したと思っていた過去の扉の向うから、静かに涙の雨の雫が降り注ぐ。本当に守るべきものはここにあるのだ。

 人間らしさとは? やさしさとは? 一番大事なものとは? これまでに出逢った人たちや、起こった出来事すべてが、複雑に絡み合い、きっとそのことを僕に気付かせたかったのだ。

 僕はおずおずと遼太の手を握る。ふと見ると、静子も目にいっぱい涙を溜めながら微笑んでいる。遼太もにっこり笑っている。

   

    ※

 

 手術から半年経った翌年二月。秀俊さんは家族みんなに見守られながら、静かに逝きました。 

 たったふた月余りの時間でしたが、彼にとって、これほど心健やかな時間はなかったのではないかと思います。結局、村井さんは最期までその姿を見せることはありませんでした。

                                       続く
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