第85話 逃げない覚悟

文字数 3,480文字

村井祐一様



 留守電聞かせてもらいました。まず運動会での件ですが、誤解されているようです。

 私はどうしても仕事で運動会に行けない友里さんの代わりに都ちゃんの写真を撮りに行っただけなのです。それ以外に他意はありません。

 今現在、都ちゃんと咲希ちゃんはうちにいます。私と友里さんで面倒を看ています。私は今まで、あなたと友里さんの離婚協議について口を挟まず、ずっと傍観して来ました。しかしながら、そちらがそのような態度で臨むのであれば、私としてもこのまま引き下がるわけには参りません。弁護士に仲介してもらい、私の持てる全力をかけて相応の対応をさせていただくことになると思います。

 元より、あなたと友里さんが不仲になった原因は私にはこれっぽっちもございません。私はあなたと友里さんが別居された後にお付き合いさせていただいております。その点をご理解願います。

 第一、私と友里さんが不倫関係にあるとおっしゃるのなら、今現在あなたが布施のマンションで同居されているご婦人はいったいどのように言い訳されるのでしょうか? あなたは友里さんとの結婚生活を続けていながら、その女性とも結婚前からのお付き合いを継続されていたと聞いております。そちらの方が問題なのではないですか?

 それと最後に親権に関しまして、あなたが離婚調停で一番問題にされております友里さんの健康面につきましては、私が全力でサポートいたしますので心配には及びませんことをお伝えしておきます。

                             

                                天宮秀俊

 

 その後、祐一からの返事は返って来ないまま、三ヶ月が経過しようとしていた。

 離婚協議は継続しているようだが、結論はまだ出ていない。友里の話によれば、いつも裁判官から決めるのは友里の方であり、ここで「はい」と言えば、その場で決まると言われていた。どう決まるのか? 親権放棄を迫られていたのだろう。と言うことは、あちら側が有利なのだろう。

 僕は今まで人と争うことが大嫌いで、できるならすべて平和的に解決したいとずっと願って来たし、それが今までの僕の生き方であった。しかし今僕は思う。それでは愛する人を本当に守ることなんかできやしないのではないか? と。時に大切な何かを賭けて人と奪い合うことも必要なのだ。そこから目を背けていたら、本当に大切なものは手に入らない。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、友里が僕の前に現れ、僕が変わり始めていることは確かだった。

 

 さて、ここで友里の生活に変化があった。彼女には子供の頃より、なりたい職業が二つあった。一つは占い師であり、もう一つはメイクアップアーティストだった。もちろん今現在の職である風俗嬢をこのまま続けるつもりもなかった。あれはあくまで抱えた負債の返済のためであった。しかしその潤沢な収入のおかげで、負債を返しながらも多少なりとも自由に使えるお金もできた。それでかねてより習いたかったメイクの専門学校に入学することになる。

 しかし、その間にも、彼女の病気はまったく改善することはなく、逆に悪くなる一方だった。祐一とは子供の親権のことで、もう二年にも渡って調停を続けている。そのことが、彼女の病気の一因になっていることは間違いなかった。時折起こす病気の発作の為に、地下鉄に乗れないこともしばしばあり、その度に僕は車で友里を迎えに行った。だからいつ友里からSOSが来るかもわからないので四六時中携帯は離せなかった。

 猛暑が続くある夏の日、あまりにも友里は調子が悪いので、僕に一度いっしょに病院へ付いて来てくれないかと言った。もちろん僕は喜んで引き受ける。友里の病気を治したい。僕にはそれこそが今の自分にしかできないことだと言う自負があったのだ。

 次の日、僕は会社を休んで友里といっしょに病院へ向かった。

 初めて訪れる心療内科。それは僕だけではなく、健康な人々には何かしらの畏れや不安を持つ場所に違いない。今でこそ心療内科と言う名前が一般的だが、過去、それは精神科と呼ばれていたのだから。僕には縁のない場所であったはずだ。

 僕は恐る恐るその扉を開いた。待ち合いはたくさんの患者で溢れているが、やはりどことなく雰囲気が少し違う。頭を抱えて膝に突っ伏している男性、床に寝そべっている女性、何かずっとしゃべり続けている老人、あきらかに、何日も入浴をしてないであろうことがわかる異臭を漂わせた若者、カバンからお菓子を出して、ずっと食べ続けている太った中年女性。僕はとても不安になった。

 ああそうだ。ひかりの家の障害を持つ子供たちを初めて見た時に似ている。どんなに精神が健康な人でも、ここで何時間も待っていると、きっと心を病んでしまうような気がしていた。そんな畏怖の念がこの空間には漂っている。

 長い待ち時間の末、ようやく友里が呼ばれた。僕もいっしょに診察室へと入った。診察室と呼ばれているが、白い物が見当たらない。重厚な木製の机と中央には応接セットのような対面の大きなソファーが置かれてあり、その背後の壁には専門書やそれ以外の書籍のぎっしり詰まった大きな本棚がある。そして何より、主治医は白衣ではなくスーツ姿だった。首から下げたネームプレートがなければ医者には見えない。そのプレートには『心療内科/岡田』と表記されている。



「あなたと村井さんはどういうご関係です?」

 岡田医師は尋ねた。僕は返答に困ってしまう。

 友里は現時点では祐一と別居はしているが正式に離婚してはおらず、現在調停中の身である。ただ、今現在僕とは知人や友人よりも親しい関係であることは間違いない。わざわざ付き添って主治医に会いに来るぐらいなのだから一目瞭然なのだろう。

 しかし社会的に見れば、僕は人妻と付き合っているわけだから不貞関係にあると取られても仕方がない。では何と呼べばよいのか? 恋人なのか? いや、愛人になるのか。愛人ですと言うのも変だ。岡田医師は今現在の友里と僕の家族関係、人間関係、生活環境について事細かに、図解にしてメモを取っていた。

 口籠る僕を見て、岡田医師は、「ああ、内縁の夫ですね」と言って、あっさりその人間関係の相関図の中に僕を書き入れてしまった。そして完成した相関図を見て岡田医師は一言、「けっこうややこしいな」と呟いた。

 僕はテーブルに置かれたその図を見つめた。なるほど、こういうふうに図式化すると人間関係の中で起きる様々な問題点が一目でわかる。

 

『村井友里とその内縁の夫である天宮秀俊を中心に、離婚調停中の友里の夫、祐一、天宮と友里の不倫が原因で別れた天宮の元妻、静子、静子と天宮の子供である直也、遼太、そして現在天宮の家に同居している友里の子供である都、咲希。それと祐一が友里と離婚したら後妻に迎えるらしい本名もわからない女、メロディさん。尚且つ、補足として、四人の子供の内、直也には重度の発達障害があり、都の癲癇発作の原因を作ったのは友里本人である。そして友里は現在、借金返済のために風俗で働いている』

 

 これを見る限り、かなり複雑で友里の発作の引き金になる問題は山のようにある。それは僕にもはっきりとわかった。そして岡田医師は話を続ける。

「うーん、村井さんの病気はね、完治が非常に困難です。治ったかに見えても、これだけ身の回りにたくさんの問題を抱えていると、何かのきっかけですぐに再発します。もしかしたら、根本的にはもう治らないかもしれません。だから、病気と戦って、病気に打ち勝つのではなく、まわりの人みんなで協力して、彼女を支えて行くことが大前提になります。

 しかし、今のこの状況では、村井さんのまわりには彼女の病気を理解して、協力してやって行こうというような人はほぼ見当たりませんね。足を引っ張る人ばかりだ」

 岡田医師は首を振りながら渋い顔をする。確かにこれでは友里の病気が良くなることはないと思った。

 岡田医師はおもむろに僕の方を向く。

「そこでですね、一番大切なのは、天宮さん、あなたです。少し厳しいことを言いますが、あなたは、本当に村井さんから、彼女の病気から、逃げない覚悟はありますか?」

 真剣な眼差しが僕の目を捉える。今日初めて会ったばかりの一医師が僕を問い詰める。口調は穏やかではあるが、その目は生半可な気持ちならば友里には関わるなと言わんばかりだ。

                                      続く
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