第47話 夏の夕刻の匂い

文字数 1,929文字

その日の夕方、喪服に着替えた僕は直也を連れて友里との待ち合わせ場所に向かっていた。

 土曜とは言え、工事の影響で所々道は混んでいた。以前、静子を乗せてよく通った交差点も渋滞でなかなか進まない。車はちょうど静子の好きなケーキ屋の前で停まった。今朝病室で見た静子の白い顔といやに茶色く澄んだ瞳が僕の脳裏にちらちらと浮かんでは消える。

 直也は車に乗ることが大好きだった。行き先はどこであれ、車で行くとなったら、どこへでも喜んでついて来た。この子は一見して何もわかっていないように見える。嬉しい時には全身で喜びを表し、嫌な時には大声で叫ぶ。ただそれだけだ。でも僕はそんな直也を見て、その時の自分に一番欠けているものではないのか? 何もわかっていないのは、実は僕の方なのかも知れないと思った。

 信号で車が止まり、ハンドルを握りながら僕はちらりと直也を見る。まばたきもせずに外の景色をじっと見つめている直也。その時、ある思いがふと僕の脳裏をよぎった。もしこの子が、翔一くんのように、自分の前から突然消えてしまったなら? 食い入るように見つめるこの表情がもう二度と見られなくなるとしたら? そう考えたとき、僕は一瞬ふっと意識が飛びそうな感覚を覚えた。

 直也は何も答えず、ただ車窓の景色を見つめている。顔をゆっくりと動かしながらじっと凝視するその独特の動作は、知らない人が見れば、随分と奇異に見えることだろう。

 その一風変わった動作は、目から入ってきた情報を余すことなく一度に処理するためだと、かつてひかりの家の近藤は言った。 

 また、直也に限らず、彼女が今までに見てきた奇異に見えるさまざまな行動は、ある面から見れば障害なのかもしれないが、別の面から見れば、人類の新しい進化への一歩なのではないか、とも近藤は言った。あの時僕は納得した。確かに理屈はそうなのかもしれない。

 でも今は……。

 それが障害であろうが特異な能力であろうが、そんなことどうだっていい。どれだけ自分を苦しめてくれてもいい。ただ、自分の前から、この世界から、翔一くんみたいに消えないでほしい。 

 ずっといっしょにいてほしい。僕は素直にそう願った。ひび割れた大地を緩やかに潤す雨のしずくのように、生き生きと景色に見入る直也が、僕の乾いた心に潤いをもたらしている。

 

 駅に着いた。

 コンビニの前で車を停めてしばらく待っていると、ベビーカーを押しながら友里たち三人が慌ててやって来た。

「待ったぁ? ごめんな、ありがとう」

 友里のやさしい声が聞こえる。咲希はもうそろそろベビーカーを卒業しても良さそうな齢なのに笑顔でちょこんと座っている。都も変わらずマイペースだ。でも僕は病院にいる静子のことをついつい考えてしまう。後ろめたかった。

 それから、三人を乗せて計五人で翔一くんのお通夜に向かった。

 誰も何もしゃべらない。FMラジオの音楽だけが、車内に静かに流れていた。通夜に向かっているのだから当然と言えば当然だが、僕はその空気が重苦しかった。何かしゃべろう。そう思った時、都がぽつんと呟いた。

「ねえお母さん、翔一くん、もう新しくなったかな?」

「うん。きっとなったよ。ほんで今度は絶対幸せになるねん」

 ルームミラー越しに見る友里は、母の顔をしていた。

 

    ※

 相変わらず静かな車内にFMラジオだけが小さく流れていた。車は高速道路を降り、幹線道路に入った。大阪府の外郭部を南北に走り、郊外の都市を結ぶ環状道路、通称、外環は土曜でも交通量が多い。すれ違う車のライトがぼちぼち目立ち始めていた。

 薄暮の時間帯が一番危ないことはわかっていたけれど、なぜか僕はいつもぎりぎりまで点灯しない。悪い癖だなと思う。どうしようかと迷っている内に車は目的地に到着した。もう午後七時前だと言うのに、あたりはまだ薄青く、車から一歩外に出た時、強く夏の夕刻の匂いがした。

 かまぼこ板を並べたような同じ造りの四階建ての住宅が何棟も建っている。いわゆる団地だ。ニュータウンと言う名前が付いているけれど、かなり昔に建ったのだろう。全体的に相当古ぼけた感じがした。

 建物にはエントランスと呼べるものもなく、扉のない入り口が一棟に二ヵ所、ぽっかりと黒い口を開けている。そこから入ると、いきなり上に登る階段がある。誰でも容易に侵入することできて治安の面ではかなりの不安が残る。

 強い初夏の匂いに混ざってどこからか生ゴミのすえた臭いがする。うす汚れた子供用の自転車が入り口横に捨てられたように放置されていた。友里の話によると、この府営住宅の三階に伊藤さんの自宅があるのだと言う。

                                    続く
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