第6話 母親教室

文字数 2,240文字

 三度目の人工授精でようやく妊娠が確認された。

 静子は本当に嬉しそうだった。僕も上辺は喜ぶ様を装っていたけれど、心は晴れないままだ。ただ、あの自慰行為を強要されなくて済むかと思うと少しだけほっとしていた。

 暫くして静子は本当に辛い悪阻に見舞われた。米の炊ける匂いで吐き、口当たりの良いものならば少しは大丈夫だからと口にする果実やゼリーなどでも、結局それも吐き、あげくには今まで感じることもなかった部屋の臭いや、天日に干した洗濯物の香りにまで吐き気を催す。朝起きてから夜寝るまで、トイレに居る時間の方が長いのではないかと思うぐらいに酷かった。

 僕はそんな静子を見ているだけで自分まで重苦しい気分になった。本当に辛いのは静子なのだとわかってはいたが、そういう日々が二ヶ月、三ヶ月と続くうちに、段々といっしょにいることが苦痛になってきた。

 一日も早く生まれて欲しいと願う気持ちは静子と同じであったが、苦しみの果てにはきっと明るい未来が待っている、それを心から楽しみにしている静子とは違って、僕はただ、今の重苦しさから解放されたい。それだけのために一日も早い出産を願っていた。

 酷かった悪阻がやや落ち着きを見せ始めた頃、僕は、あのナース好き院長のクリニックで開催される『母親教室』なるイベントに参加した。

 本当はもうあそこへは行きたくはなかったが、日ごろ僕にはあまり強要することがない静子のたっての頼みで、押し切られる形での参加となった。

 それは、母親教室とは言うものの、父親も参加を推奨されていた。これから親になるカップルのための出産、育児に備えた、両親教室と言ったところか。僕と静子にとっても今回が初産だったので知っておくべき事柄は山のようにあった。他人事では済まされない。しかし悲しいかな、僕にはこれから人の親になるという自覚にほとほと欠けていた。

 当日。僕たちを含めて十組ぐらいのカップルが参加していた。そんなに広い部屋ではない。〝教室〟と謳っている割には椅子も机もなく、フローリングに少し毛足の長いラグが敷かれいて、母親の数だけ座椅子が置かれてあった。父親には座椅子はない。その椅子も体を動かす必要のある講義の途中で取り払われた。

 どのカップルも真剣そのものだった。しかし僕は今一乗り気ではない。あくまで静子の付き添い感は拭えなかった。だが予想に反して、その授業は非常にわかりやすく、親としての自覚のない僕にもそれなりに楽しめた。それは僕の旺盛な知識欲を満たしてくれるにはちょうど良かった。

 僕は会場をぐるりと見回す。母親未満の女性たち。参加している女性たちの腹は、大きさもまばらだったが、皆それなりに膨らんでいた。その中に一人、スイカのようなお腹を抱えた女性がいた。あのスイカの中にはいったい何が詰まっているんだろうか?

 僕はふっとあのモニターに映る、うごめく精子を思い出した。

「子の素、子の素……」

 耳元で静子の囁きが聞こえた気がした。

 ――あれは、女たちの本能を満たすためのもの。女たちのその強大な本能の餌食となるもの。あのうごめく小さき命の片割れが、やがてこうやって女たちの腹を膨らませているのだ。

 それは欲望。どんどん欲望が大きくなって、やがてこの世に産み出される。産み出されたものも、やはり欲望に違いない。

 欲望からは欲望しか生まれない。その証拠に、ここに来ている女たちは皆、目の色が違っているではないか。その行く手を阻むものは何であっても許すことはないだろう。すました表情の裏側に潜む激しい本能。交尾を終えたオスさえも食い殺す。――母性。

 僕は隣でにこやかに笑っている女のその笑顔の裏に隠された雌の鋭い爪を見たような気になった。だから列席している他の男たちのようには笑えなかった。子供が生まれたら、自分たちは餌になるのだ。そして僕は、そんなふうにしか考えられない自分はきっと異常なのだと知っている。

 途中、出産シーンのビデオが上映された。他の面々は「生命の神秘」だとか、「すごく感動する」だとか、まるで申し合わせたように口々に言う。もうすでにその目はうるうるしている者さえいる始末だ。そしてあろうことか、最後に、男たちは皆、立ち会い出産希望に強く強く丸を付けた。当然だと言わんばかりに。

 だがその映像は、血の苦手な僕にはおぞましいスプラッター映画のように見えた。百歩譲って医学的参考資料だろう。非日常的な光景。まるで地獄の門のような巨大な口から大量の薄汚い液体と共に出現する赤黒い新生児。

 そこには当然ながらエロスも感動も微塵にも感じられなかった。そんな僕だったから、冷酷だと言われようが、人でなしだと罵られようが、立ち会いなど、どう足掻いても出来そうになかった。

 しかし、本当に僕が立ち会うことに違和感を抱いていた理由は、心から祝福の気持ちがない者は、そこに入るべきではないのではないか? とうすうす感じていたからだ。

 静子は、頑なに丸を付けない僕に、「どうしていっしょに居てくれないの?」と言う目を向けた。

「ゴメン、俺、血ぃあかんねん。見て倒れでもしたら迷惑やろ?」

 そう答えると、静子はもうそれきり僕には何も望まなかった。しかしその表情には深い孤独感が漂っているように見えた。僕は良心の呵責を感じざるを得なかった。

 そして僕が母親教室に参加したのは、後にも先にもこれ一回きりだった。

                                    続く
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