第90話 昼下がりのデパート

文字数 1,903文字

 友里の左腕は、いつの間にか、傷痕だらけになっていた。

 死ぬことが目的ではなく、ただ、自分を傷つけ、自分が犯したであろうその罪の意識から逃れようとする。あるいは、傷や滴る血を見ることにより、自分の存在を確認しているのかもしれない。

 使用するものは、いつも婦人用のエチケット剃刀だった。切れ味がちょうど良いぐらいだったのだろう。もちろん手首を切るのではない。前腕の表面を、血が滲む程度に何度もシャッシャっと擦る。そのうち、腕は幾重にも重なる赤い線で埋め尽くされ、そこから血が薄く滴り落ちるのを見ると、彼女の心は、少しだけ落ち着いた。

 僕が最初に、血まみれの友里の左腕を見た時、驚愕して慌てて剃刀を取り上げ、そして、彼女の目の届くところへ刃物は置かないように心掛けたのだが、それは逆効果であると後から気付いた。

 ある日の午後、友里から僕の携帯にまた、救援を求める連絡があった。近鉄上本町店の三階婦人服売り場の片隅にあるトイレで動けなくなったと言う。

 僕は友里からの救援コールがかかって来るたびに急いで現場に向かった。

 友里は婦人服売り場の隅にある女子トイレで動けなくなったらしいが、僕は入れない。トイレの前でどうしようかと考えあぐねた結果、緊急事態であることを考え、婦人服売り場の販売員に声を掛けた。

「すみません、連れが女子トイレで気分が悪くなって動けなくなったと電話がありまして」

 すぐに「それは大変」と、年輩の女性販売員の方と僕もいっしょにトイレに向かった。平日の昼間でお客さんはほとんど居なかったことが幸いだった。

 店員がドアをノックすると、中から消え入りそうな友里の声が聞こえる。鍵が掛かっていて、外からは開けられない。

「お客様、大丈夫ですか? 鍵を開けてもらえますか? お客様!」

 店員が声を掛けて、ようやく中からガチャっと鍵の開く音がした。僕は慌ててドアを開ける。

 便座に座ったままで体をくの字に折り曲げ、顔面は蒼白、下半身はジーンズと下着を膝まで下ろした状態で、ぴくりとも動かない。店員が驚いて、すぐに救急車を手配した。

 僕は救急隊員が到着するまで、友里に一生懸命話しかけたが、薬のせいなのか意識が朦朧としていて、まともに受け答えもできない。そうこうしているうちにストレッチャーを押して救急隊員がやって来た。

「奥さん、大丈夫ですか? 立てますか?」

 救急隊員が友里の体を支えて立たせようとした時だった。なんと、友里の下腹部に出刃包丁が刺さっていた。

「あっ」

 皆が一斉に声を上げる。

 次の瞬間、包丁は友里の腹部から抜け落ちて床で小さく音をたてた。

 静かな昼下がりのデパートは一気に騒然とする。友里はすぐに近くの日赤病院へ搬送されたが、僕は現場で待つように言われた。

 それからすぐに制服に身を包んだ警官が現場を占拠してしまった。僕は病院へ付き添うことも許されず、事情聴取のため、天王寺警察署へそのまますぐに連れて行かれた。

 警察署では、友里と僕の関係や、前後の話の成り行きや、あるいは友里の病気のことなどを詳しく聞かれたけれども、友里本人や、友里の父からその裏付けがなされるまで、僕は解放してもらえなかった。ただ、担当の警察官が、精神疾患に対して理解のある方だったので、日赤病院まで送ってもらうことができ、また、「頑張りなさい」と励ましてもくれた。

 病院に到着して、すぐに友里に会いに行った。 

 幸いにも命に別状はないようで、意識もちゃんとしている。ひとまずは良かった。僕は何も言わず、ただいつものように友里の手を握った。すると、友里は泣きながらこのように言った。



 ――あたしな、自分の汚い子宮を切り取りたかったんや……。

 それで、上で包丁を買って、気が付いたら、あのトイレで刺してた。けど、その痛みでびっくりして、あかんと思ったけど、また天宮さんに電話してしもてん。

 

 僕は何も言わず、ただ黙って友里の手をやさしく握ることしかできなかった。彼女の苦悩が、その手から伝わって来る。涙を流す友里に対して、僕は「もう大丈夫やから、心配せんでもええ、もう大丈夫……」と、心の中で、何度も繰り返して呟いていた。

 傷の方は幸いなことに内臓にまでは至っておらず、友里の下腹部に赤黒い縫い痕が残っただけで済んだ。しかし心の傷からの出血は止まらない。

 いつになったらこの出血は止まるんだろうか。僕の力でこの血を止めることができるのだろうか。岡田医師の前で、絶対、友里を守りますと約束したのだから、こんなところでへこたれるわけには行かない。

                                     続く

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み