第20話 ダーク

文字数 2,086文字

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 それから半年ほど過ぎた。それは、幼い二人の子供を連れて、堺市の実家から自宅へ戻る途中で起こった。

 昼下がり、近鉄大阪難波駅で電車を待つ友里。平日の午後三時にもかかわらず、地下にある近鉄奈良線のホームはけっこう混み合っていた。

 元々彼女は人ごみが苦手だった。特に閉鎖された地下街などの混雑は、彼女に相当な圧迫感を与えた。今までも何度か気分が悪くなったり息が苦しくなったりすることはあったがその日は特別だった。

 列車待ちの列に並ぶ友里。混雑していたのでベビーカーをたたみ、乳飲み子の咲希を抱っこ紐で抱え、ちっともじっとしていない都みやこを左手で強く引いて、右手には三郎から渡されたジュースだとかお菓子だとかの食品の数々が入ったバッグを提げていた。

 重くなるからと断ったが、今やすっかり角がとれて丸くなった父、三郎がかわいい孫を思ってのことなので、そうむげに断るわけにもいかず渋々詰め込んで帰って来たものの、実家から難波駅まで来るだけで重い土産を持ち帰ったことに友里は相当後悔していた。

 友里の自宅は近鉄奈良線の布施駅近くにあった。普段そうしていたように南海新今宮でJR環状線を経由して鶴橋で近鉄線に乗り換えれば、二回の乗換えがあるものの歩く所はほとんどなかった。あまり体調の良くない友里はもちろん今日もそうするつもりだった。

 しかし電車が新今宮に着く手前で、都が「ねえママ、お魚のところ通る?」と友里に尋ねた。

〝お魚のところ〟とは、南海なんばから近鉄大阪難波までの地下通路途中に展示された熱帯魚水槽のことだった。二人の幼子たちは、そこを通る度に立ち止まって色とりどりの熱帯魚たちを飽きるまで眺めた。

 結局、友里は都の言葉に負けてしまい、新今宮で降りることはなかった。友里はしんどかった。けれどそれ以上に都や咲希の笑顔が見たかったのだ。

 再び近鉄大阪難波駅ホーム。列車はなかなかやって来ない。しんどい時に限っていつもそうだ。最初にやって来たのは、奈良行きの快速だった。すぐにでも乗りたかったが、残念ながら彼女の住む駅には止まらない。

 扉が開き、中からたくさんの人が吐き出され、たくさんの人が吸い込まれてゆく。車内は明るい光に包まれていた。自分はその中へは入れない。乗っている人々が皆自分の方を見て、「お前はこっちに来るな」と一斉に言われているような気がした。

 次に照明の消えた回送特急がホームにゆっくりと入って来た。扉が開くが、「回送列車です。お乗りにならないで下さい」のアナウンス。大きな車窓から見える車内は、暗く寒々としていてまるで亡霊たちを乗せて黄泉の国へと向かう死の列車のようだ。彼女はその列車が怖かった。

 友里は突然、何かに締め付けられるような不安に襲われ、周りがぐるぐる回り出して息が出来なくなり、咲希を抱えたままとうとうその場で座り込んでしまった。

 咲希は、ただ、母をきょとんと眺めて、三才になったばかりの都は、母の突然の発作に、驚き、戸惑い、ただ「ママ、ママ」と声を掛ける。

 幸い、周りにいた親切な年配の女性に助けられ、そのまま駅員に救護室に連れて行かれてしばらく休んで、なんとかその場は事なきを得た。

 心配そうに母に寄り添っている都。

「ママ……」

「ごめんごめん、ママもう大丈夫。大丈夫やから」

 疲れが溜まっていたのだと、そのとき彼女は思っていた。けれど、それは、これから彼女を襲う大変な病のほんの前触れに過ぎなかった。

 その駅での一件から半年が過ぎ、上の子だけでも、相当に手が掛かるのに、さらに下の子も片時も目を離せなくなった。けれど相変わらず祐一はそのことに理解を示さない。



 大阪難波駅での一件以来、発作が度々友里を襲うようになった。その引き金となるものは、何かに対する恐怖なのか、あるいは不安なのか、まったく漠然としていたが、それはおそらく何らかの負の感情に起因して起こることは確かなようだった。そしてその頻度は増すばかりだ。

 今ならばそれは、パニック発作と言う名前で広く知られるようになった。しかし当時そのようなものはまだ世間一般にはあまり認知されていなかった。

 だから友里はその恐怖の主に自ら〝ダーク〟と言う名前を付けた。

 ダークがやって来る前にはある兆候が見られるのだそうだ。

 そのイメージがどのようなものなのかと言えば、まず初めに、白いキャンバスに蝿のような小さな黒い点が現れて、徐々に広がり、やがてまわりのすべてを黒に塗り潰すのである。

 実際に体に起きる症状は、まず過呼吸から始まる。そしてすぐに立っていられなくなる。やがて恐怖が頂点に達すると首を絞められたように息が出来なくなった。

 その度に友里は眉間にぎゅっと皺を寄せて、両手のこぶしを爪が刺さるぐらい強く握り締めた。そうやって怖くなくなるまでただじっと耐えた。短い時で五分、長い時でも三十分も経たない内にそいつは去った。

 そのうち友里は、体の痛みが麻酔のように恐怖を麻痺させることを知る。危険な兆候だ。

                                    続く
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