第65話 心はどこにも行き着きはしない

文字数 2,723文字

列車の心地よい振動が聞こえる。依然として僕は友里の左肩を包み込むように抱いていた。友里は先ほどからずっと目を閉じて僕の首元にもたれかかる。

 もうこのまま永遠に着かなければいいと、僕は何度も思った。この甘い匂いにずっと包まれていたかった。

 車内販売のワゴンが横をゆっくりと通る。

 僕はちらりとそちらを見上げる。まだ若そうな販売員の女性と目が合う。彼女はすっと目を逸らした。明らかに見てはいけないものを見たと言う目だった。

 それは世間が自分たちに向ける視線に違いない。その一瞬、今いる世界が泡沫なのだと僕に思い出させはしたが、友里の髪の感触がそんなことをすぐにどこか遠くへ押しやってしまった。

 ――天宮さん、ちょっと頭良過ぎやで、何でも頭で考えたらあかんよ。人を好きになるのは、頭でなくて、ここやよ……。

 そう言って友里が僕の胸に手を当てたあの時のことを再び思い出していた。

 これが〝切ない〟と言うことなのだろう。あの時、あの階段で、友里が僕の心の封印を解き放ってから、まったく世界は違ったものに見え出したのだから。 

 片道五十分の非現実的な時間はあっという間に過ぎ、僕たちは名古屋に着いた。

 列車から降りて、改札へと向かう僅かな時間でも、友里は僕と手を繋ごうとする。けれども僕は、この期に及んでまだ人目を気にしていた。そっと友里の手を離し、その代わり腕を組んだ。

 友里はほんの少し不満そうな顔をする。直接皮膚に触れあうのと腕を組むのでは大きな隔たりがあったのだろう。

 改札を出て、賑やかな夜の街を、まるで十代のカップルみたいにべったり寄り添って歩いた。十一月下旬の夜風は冷たかったが、逆に友里の温もりを強く感じることができて僕は嬉しかった。逃避行と言う言葉が僕の脳裏をかすめる。

 知らない土地を三十分ほど歩いて、ようやく今夜の宿にたどり着いた。シティホテルでもビジネスホテルでもない。繁華街の大通りから一本脇道に入った、人通りのほとんどない路地にそれはあった。

 前もってネットで調べてはいたが、見つけるのにずいぶん迷ってしまった。しかし僕はその迷う時間でさえ愛おしく思う。迷えば迷うほどに、欲望はさらに高まっていた。

 赤と青のネオンサイン。空室の表示。それは宿と言うよりもまるで身を潜める為の隠れ家みたいだと思った。ドアを開けて中に入る。薄暗いエントランスに人影はなく、突き当りの小さなフロントにも人はいない。

 呼び出し用の内線電話が置かれているだけだ。その横の壁にはタッチパネル式の部屋が表示されている。僕は空いている部屋を適当に選んでボタンを押すと、通路に矢印の電光表示が現れた。 

 この矢印は快楽への道案内だ。そしてこの猥雑な雰囲気は、日本中どこに行っても変わらない。でも今の僕たちにはこれ以上の空間はない。

 部屋に入り、照明を点け、扉を閉める。間髪入れることなく僕は友里を強く抱きしめてその唇を奪った。Rushの香りが僕を包み込む。二人は服さえ脱がず、そのままベッドへとなだれ込む。



 僕はもう三十分以上も友里をかき混ぜ、三度目の大波が友里の小柄な体を突き抜けて行った。彼女は身をよじらせて搾り出すような声で「イヤッ」と叫びながら体を震わせる。

 今だけはすべてを独り占めしたかった。だがいくら肉体は満たされても心はどこにも行き着きはしない。どれだけ体を合わせようが、切なさが満たされることはない。それでも二人は合わせずにはいられなかった。

 それから暫くして、友里は僕の胸にぴったりと寄り添うようによく眠っていた。小さな鼾を掻いている。よほど疲れているのだろう。でも僕は眠れない。いや、眠らない。

 さっきからもう何回も時計を見ていた。三十分、二十分、いや、五分おきかも知れない。その度に僕は、お願いだから、朝よ来ないでくれと、何度も祈っていた。

 けれどそんなことお構いなしに、窓の隙間から淡い光が射しこみ始める。それを拒むように僕は体をゆっくりと起こし、そしてまた友里の上に被さった。何もかもがどろどろにとろけて、もう何も考えられなくなっていた。

 友里の瞼がゆっくりと開いて、僕の目をじっと見つめる。

「また、するのん?」

 僕は答えず、やわらかい乳房に頬ずりしていた。涙が自然に溢れた。泣きながら、それでも、そこだけは別の命が宿っているかのように制御が効かない。

 友里がゆっくりと両足を上げて、かりそめの命を迎え入れようとする。あるべき場所に帰るように、僕はゆっくり沈んで行った。やがて友里の中から沁み出した麻薬が僕を包み込む。冬至を過ぎたばかりの遅い夜明けがやって来ていた。

 

 その朝、僕と友里は再び名古屋駅に戻り、中央本線で中津川を目指した。昨夜はほとんど眠れなかった。しかし眠くはなかった。それどころか僕は、頭の芯がいつも以上に研ぎ澄まされているような不思議な興奮を味わっている。

 名古屋駅から中津川まで特急しなので一時間もかからない。車窓から広がる田園風景と、遠くに雪を抱いた中央アルプスの山々が見える。

 友里はちょっとした旅行気分なのか、温かいコーヒーを飲みながら、満足そうな顔をしている。でも僕はそんな気分にはなれなかった。

 中津川でオートバイを引き取り、友里を乗せて僕は、一路大阪へと向かう。背中に友里の温もりを確かに感じていた。

 夢のような二日間が過ぎようとしていた。岐阜から大阪まで戻り、家はもう目の前に迫っていた。否応なく現実が待ち構えている。

 でも僕はどうしても帰りたくなかった。だからもうこれが最後だから、と、いつものホテルへ友里を無理やり誘った。タイムリミットまで後一時間半。

「もう時間ないよ。今からまた行くの?」

「うん。行く」

 まるで何かに憑かれたように半ば強引に言う。友里も呆れた顔をしていたがまんざら嫌そうでもない。二人は磁石のようだと思った。互いに強力に引かれ合う。ただ間にあるものは磁力ではなく、持って行き場のない情欲だ。

 赤と黒。いつもの部屋。いつもの淫猥さを纏ったベッド。その上で、盛りの付いた犬のように僕は執拗に腰を振る。無音の室内で、はぁはぁと言う荒い息遣いと、すべてをかき消す友里の喘ぎ声だけが響き渡る。

 少なくとも、この行為に終わりはないのだろう。体は何度も果てたが、心は決して行き着く安息の地はない。ただ淫靡な空気の中でずっと彷徨うばかりだ。

 やがて無情にも時は終わりを告げようとしていた。その時の僕にはもう友里のことしか見えなくなっていた。愛しくて愛しくて、どうしようもないぐらい愛しくて気が狂いそうだった。

                                       続く  
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