第94話 取り調べ室

文字数 2,771文字

 それからまた半年が過ぎ、季節は春になった。依然として友里は出て行ったままで、佐伯といっしょに暮している。友里との付き合いは、ひと月に一回、メールが来る程度にまで少なくなっていた。きっと新しい彼とうまく行っているのだろう。幸せならば、それでいい。

 そんなある夜のことだった。僕の携帯に電話がかかって来た。表示を見ると、佐伯 携帯となっていた。

「もしもし、天宮さんでしょうか?」

「はい、天宮です。ああ、お久しぶりです。どうしました?」

「あの、すみません、友里の具合がちょっと悪くて……」

 明らかに動揺した声が聞こえる。

「悪いって、発作か何かですか?」

「はい、最近ちょっと調子が悪かったんですが。仕事関係とかいろいろで」

「仕事関係? はあ、それで」

「それで、今もかなり悪くて、さっきから天宮さんをここへ呼んでくれ、言うてますねん」

 ――やっぱり来たか。

「わかりました。すぐ行きます」

「すみません、ご迷惑お掛けします」

 佐伯のマンションは上本町の近くにある。僕はすぐに車で駆けつけると、マンションの玄関で佐伯は血相を変えて呆然と立っていた。聞けば、ちょっと目を離した隙に、友里は外へ出て行ったらしい。二人は慌てて辺りを探し回った。

「おった!」

 佐伯が叫ぶ。なんと友里はスゥエットの上に、下半身は下着一枚という姿で、隣のビルの三階の踊り場の柵を乗り越えて庇の上に立っている。夜も遅く、辺りには誰も人がいなかったことがせめてもの救いだった。



「おーい、動くな、もう大丈夫やから!」

 僕は真下から大声で叫んだ。

 かつて病院で友里を受け止めた警備員のように、もし飛び降りたら下で受け止めようと思っていた。その間に佐伯が三階まで駆け上がる。

 庇の上に立っている友里はぼんやりと前を見ている。靴も履かず、薄暗がりの中で黒い下着から伸びた足がやけに白く見えた。もういつ飛び降りてもおかしくない。

 その時。佐伯が踊り場の柵越しに手を伸ばして、友里の腕を掴んだ。その様子を見て彼もすぐに三階まで上がり、友里を二人がかりで踊り場へ引き上げた。

 二人で両横から抱えるように一階に連れて降りたところで、友里はすごい力で二人を振り払おうと暴れ出した。佐伯はその勢いで一瞬怯むが、僕は背中から友里を羽交い絞めにして離さない。そしてさらに力を入れて抱き締める。

「いやぁぁやめて離して!」

 友里が泣き叫ぶ。その声は深夜の街に響いた。これはかつて、嫌がる自閉症の直也を羽交い絞めにした抱っこ法と同じだ。あの時もパニックになった直也が、直也自らの意思で「イヤ」と拒絶の声を上げるまで離さなかった。

 今回も同じに違いない。友里が落ち着くまでその手を離さない。もがく友里が僕の腕に強く爪を立てた。僕の腕の皮膚が破れて血が滲んだ。それでも僕は羽交い絞めの力を緩めない。やがて諦めたのか、少し落ち着いたのか、友里は小刻みに震えながら静かになった。

 佐伯が再び友里の傍に詰め寄る。すると落ち着いていた友里が再び金切り声を上げる。僕は理解した。この発作の原因は佐伯であると。佐伯を見て酷く興奮しているのだ。

「すみませんが、今夜は友里をうちに連れて帰ります」

 僕は佐伯に言った。

「え、でも……」

 佐伯はそう言いながらも明らかにホッとした表情をしている。僕はこんな時なのに、少し嬉しく思った。

 ぐったりした友里を二人がかりで車の助手席に乗せてシートベルトを締める。そして僕は運転席に乗り込み、車を発進させた。佐伯が深々と頭を下げている。ダッシュボードの時計に目を遣ると、もう午前一時を回っている。とにかく家に帰ろうと思った。

 途中、ちらちらと友里の方を気にしながら、僕は深夜の裏通りを注意深く走らせる。

 カチャッと音がした。

 僕は「えっ?」と思ったその時だった。つい今しがたまで苦悶の表情を浮かべていた友里がドアを開けて勢いよく外に飛び降りていた。速度は四十キロも出ていなかった。僕は慌てて急ブレーキを踏む。その反動で助手席のドアが大きく外側に開いた。

 誰も乗っていない空っぽの助手席が怖かった。サイドミラーの中には道路をごろごろと転がる友里の姿が映っている。 後続車が来ていなかったのが不幸中の幸いだった。

 僕は慌てて車を停め、友里の所へ駆け寄るが、額から血を流して気を失っている。慌てて救急車の出動を要請したが、状況説明したところ、交通事故なので警察にも通報するように言われる。

 十分もしないうちに重複したサイレン音が耳に届き出し、やがて救急車とパトカーがほぼ同時にやって来た。友里は病院へそのまま搬送されたが、僕は例のごとく、また事情聴取が待っていた。しかし今回は警察の対応が今までとは明らかに違っていた。

 警察官の一人が言う。

「彼女が自分で車から飛び降りた? 嘘言うたってすぐわかるんやで」

 すぐにもう一人の警察官が冷たく言い放つ。

「女性が、一人で、自分から、車から飛び降りた? おたくが突き落としたんと違いますか?」

前例があるのだと言う。喧嘩をしていたのではないのか? とか、別れ話をしたのではないのか? 挙句には、下着しか着ていなかった友里に対し、性的な暴行を加えようとして拒否された末の蛮行なのでは? などと警察官は僕を徹底して容疑者扱いする。僕がいくら「彼女は精神の病気のために自分で飛び降りたんです」と説明しても信じてもらえない。

「運転手さん、ちょっとパトカーの後ろに乗ってください」

 もう一人の警察官が僕の車を運転して、僕はパトカーの後部座席に乗せられ、とうとう警察署へ連行されてしまった。

 僕は生まれて初めて警察の取り調べ室に足を踏み入れた。しばらくして友里の搬送先の病院からの連絡があり、まだ意識がはっきり戻らないとのこと。

 僕は「お願いですから病院へ行かせて下さい」と言ったが、容疑が晴れないうちはその願いを聞き入れてもらえない。

 結局、解放されたのは、朝の六時だった。それも友里の意識が戻り、彼女の説明で故意ではないということが判明したからだった。

 怪我の方は打撲だけで軽症だということで僕はほっとした。しかし、もし重症だったら、意識が戻らなかったら、僕はいったいどうなっていたことか。

 そして、解放される時に警察官の一人が僕に言った。

「今回は単独事故で処理しておくから。こんなこと、もうないように。病院へでも入院させなさい」

 この言葉を聞いて僕はもう怒る気力もなくしていた。

 その後僕は慌てて病院へ駆けつけ、医師に説明を求めた。頭部の挫傷と軽い脳震盪で、CTも異常はなく、しばらく安静にしていれば良いということだった。

 長い夜がようやく明ける。家でたった一人寝ている直也のことが心配だった。

                                       続く
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