第42話 翔一くんが、亡くなった

文字数 2,645文字

「大丈夫か?」

 僕はベッドで横になっている静子に声を掛けた。

「うん、ありがとう。今回は前よりだいぶマシやわ」

 静子も満足気だ。余裕が感じられる。

「もうすぐ直也、お迎えに行かなあかんね」

 ふと時計を見ると、四時を少し回ったところだった。お迎えを理由に病院を離れられることが僕には有り難かった。

「そやな、ちょっと早いけど、ぼちぼち行くわ。もし、僕のおらん時に何かあったら、携帯に連絡ちょうだい」

 僕はそう言って部屋を出た。大義名分だ。ほっとしていた。

 高い天井の豪華なエントランスを抜け、一人駐車場に向かう。本当にホテルのようなところだ。ベルボーイがいたとしても何の不思議もない。

 駐車場で秀俊の帰りを待つトヨタに乗り込む。これでも一応SUVなので座席が高い。子供が生まれたら乗り降りに少し苦労するかもしれないと感じた。しかし直也の時もこの車だったのに、あの時はそんなふうに考えたこともなかった。

「降って来たか」

 フロントガラスにぽつぽつ付き出した水滴を見て呟く。

 両親との会話も他人行儀で気まずかったが、本当は今から出産と言う怪物と真正面から戦おうとしている静子の姿や、張り詰めたあの部屋の空気が嫌だったのだ。

 人の苦しんでいる姿を見るのは苦手だ。それが、自分に原因があることならば尚更だった。逃げてばかりでは、前に進まないことはわかっている。けれどその時の僕にはできずにいる。卑怯だと感じていた。

 車は三十分も経たない内にひかりの家の門をくぐった。僕が静子の代わりにひかりの家に通い出して二週間以上が経ち、お迎えにも随分と慣れた。

 ひかりの家に着いて玄関で当たり前のように靴を脱ぎ、そのまま館内に入って行けるようにもなっていた。もう玄関口で突っ立って待つこともない。

 けれどその日はいつもと少し様子が違った。玄関でちらりと横の事務室を見る。明かりが消えていた。いつもいるはずの近藤の姿が今日に限って見えなかった。二週間通って初めてのことだった。不思議な感じだ。

 館内もいつもと少し様子が違う。何か重苦しい空気が漂っている。廊下を奥に進むと、早足でこちらに向かうスタッフの女性と出くわした。僕は未だにそのスタッフの名前も知らなかった。お互い軽く会釈を交わすが、彼女はまるで何かに追い立てられるように僕の横をスタスタと駆け抜けて行った。いつもの笑顔はない。

 違和感を覚えながらも、いつもそうするように、直也を探しながら『なかよしルーム』へと向かう。やはり直也はそこにいてホッとした。そして友里たち親子もいた。

 最近は毎日のように友里とここで会う。時間はいつも四時三十分ごろと決まっていた。まるで待ち合わせをしているように正確だった。心のどこかでその時間を意識していたのかもしれない。いや、きっと意識していたはずだ。なぜなら、ここへ着くまでの車の中で僕はぼんやりと友里のことを考えていたのだから。――彼女のあの円らな瞳の奥に見える憂いは何だろう? と。



「こんにちは」

 いつものように僕は挨拶した。だが友里は答えない。その日の彼女はやはり少し違っていた。まるで何かに脅えているようにさえ見えた。  

「天宮さん」

 友里は何か言おうとして急に口篭った。僕はただその次の言葉をじっと待っていた。

「天宮さん」

「どうしたん? なんか雰囲気が」

「あんな、今朝な」

「うん」

「翔一くんが、亡くなったんやて」

「翔一くん、翔一くんて?」

「伊藤さん知ってるやろ?」

「ああ……」

 僕はようやく思い出した。以前、美人のママに連れられてうちへやって来た子だ。運動会でも見た。あれは、どこを見ているのか、それともどこも見ていないのか。そんなうつろな目をした男の子だった。

「ああ、あの車椅子の重度の子やな」

「そう、あの子が翔一くんや」

「なんで亡くなったん?」

「わたしもよく知らないんやけど、伊藤さんが目を離した隙に、椅子から落ちたらしいねん」

「落ちた? 確か、あの子、長い時間横向きに寝られへんとか言ってたよね。お母さん見てなかったってことか」

「うん。けど、ほんまは誰も詳しく知らんねん。知ってるのは伊藤さんだけで」

「気の毒やな」

「それでな、今、彼女、警察の事情聴取受けてるんやて」

「そうか。事故やもんな。そうなるやろな」

「彼女ね、普段はすごく平静を装ってたけど、そら、ものすごく苦しんでたと思うよ」

「そらそうやろ。けど、程度の差こそあれ、ここに子供通わせてる親はみんなそうなんと違うかな」

「まあそうやねんけどな。天宮さん、彼女のこと、何も奥さんから聞いてないの?」

「え、伊藤さんのこと?」

「そう」

 友里は少し困った表情で頷いた。明らかに友里の表情は険しく曇っている。この先は聞かない方が良いかもしれないと思った。

「いや、何も聞いてないなあ。ちょっとほかのお母さんと雰囲気違うな、とは思ったけど?」

 その時、ドアが開き、近藤が入って来た。

「村井さん、ちょっといい?」

「うん。どうしたん?」

「ちょっと警察の人が聞きたいことあるんやて」

「え? わたしに?」

「うん。ちょっと向こうの部屋まで来てくれるかな」

「私は?」

「あ、村井さんだけでいいです。話が終わるまで、まあすぐ済むと思うけど、天宮さん、それまでここで子供ら看ててもらえたら助かります」

「わかりました」

「ママ」

「ミヤはちょっとここで直也のお父さんといっしょに咲希と直也看ててくれる?」

「うんわかった」

〝わかった〟の〝か〟のイントネーションが上っていた。大阪では聞き慣れない発音だったので、僕には少し不思議に思えた。

「咲希。あかんでここで待っとかな」

 都が友里の後をよちよちと付いて行こうとした咲希の手を引っ張った。咲希は泣きそうな顔だ。直也はそんなこと一切お構い無しに手元のアイロンビーズに恐ろしく集中していた。

 友里が出て行って少し経った頃、都がぽつんと言った。

「ねえねえ、直也のお父さん」

〝なあ〟ではなく〝ねえ〟なのか。これも標準語のイントネーションだ。僕は直也の作品からゆっくり顔を上げて都の方を見る。

「都ちゃん、言葉が少し大阪弁違うんやね」

 都はまったく意に介さない様子で、再びそっけなく言った。

「ねえ、直也のお父さん、翔一くん、どうしたん?」

「え?」

 こんな僅か四つ五つの子に、すでに死についての概念が備わっているとは思えなかった。どう答えればいいのかわからない。僕の当惑した顔色をじっと伺う都。

                                  続く
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