第67話 赤いシクラメンの花言葉

文字数 2,109文字

その様子を意味ありげな表情でじっと見つめる友里。彼女は何が起こったのか、ようやくすべてを悟ったようだ。

 そして友里の唇は僅かに開くが、言葉にならない。

 僕の脳裏に一瞬不安がよぎったその時、友里の唇が動いた。

「天宮さん、わたしも、天宮さんも、子供おるから」

 僕はじっとその口元を見つめる。

「帰らなあかん」

 最後の言葉はやけにはっきりと僕の耳に届いた。でも何も言えなかった。

 ――帰らなあかん!

 彼女の方がよほど冷静だ。僕は瞬時に思う。ダメだ。自分だけここに取り残されてしまう、と。

 子を思う母の気持ちは、異性を思う気持ちよりも強いものなのだろうか。これではまるであの焼け死んだ上司と同じではないか。同じ道を歩もうとしている。

 しばらくして、また携帯が鳴った。いい加減、電源を切ろうと手に取った時、画面の表示は静子ではなく、〝近藤・ひかりの家〟だった。

 業を煮やした静子が、近藤に救いを求めたのだろう。僕は仕方なく携帯を耳に当てた。電話の向こうに聞き覚えのあるハキハキした女性の声が響く。

「ひかりの家の近藤です。天宮さん、どうか冷静になって下さい。みんな心配してるから、帰って来て、ね、静ちゃんも、子供たちもみんなここで待ってるから。すぐに帰って来て下さい。話し合いましょう。できたら村井さんもいっしょに」

「奥さん違うの?」

 友里の不安げな視線が携帯を握りしめた僕を捉える。

「近藤さんやった」

「え? 近藤さんて、コンちゃん? ひかりの家の?」

「ああ」

「そう。奥さん、困ったときはいっつもコンちゃんに相談してやったから。にしても対応早いね」

「うん。早いな」

「それで何て?」

「今はとりあえず一回家に戻って話し合いましょうって。それと」

「それと?」

「うん。言いにくいねんけど、友里ちゃんもいっしょに来てほしいって」

「そう。うん。わかった。行くわ。あたしもいっしょに」

「ありがとう。ごめんな。こんなことに巻き込んでしもて」

「何言うてんのん。あたしも当事者。同罪やわ」

 皮肉にもその言葉は、その時の僕に変な勇気を与えた。心強かった。友里がついている! と。

「なあ、帰る前に何か食べて帰るか」

「え? そんな時間あるの?」

 そういえば二人とも、昼から何も食べていない。しかし空腹感は感じていない。

「いや、でも腹が減っては何とかって言うやろ」

 友里の僕を見る視線は冷たい。かつて「わたしここから一人で帰るから」と言った時と同じ顔だと思った。

 とは言えあまり時間もなかったので、牛丼を食べて帰ることにした。ここへ来て変な余裕があった。いやそれは余裕ではなく勘違いだ。友里が自分を助けてくれると信じていた大きな勘違いだ。

 家の近くの吉野家に入る。店内には牛丼屋独特のにおいが籠っている。ちょうど夕食の時間帯だった。カウンター席だけの店内にはけっこう客が入っていた。離れて一人ずつなら座れたが、二人並んでは座れないほどだった。

 僕は友里の顔色を窺う。その時、カウンター席に座っていた労務者風の男が僕たちの方を向き「おお、ここ座れよ」と、一つ席を詰めてくれた。男は皿を突きながら瓶ビールをちびりちびりと飲んでいた。

 僕と友里は礼を言いながら、狭いカウンターに座った。店内を見渡すと、席についている客は、男独りの客ばかりだった。学生風の若い男、スーツ姿の中年男性、どこをどう見てもさえない風体の男たちばかり、女性は友里一人だけだった。

 日曜の夜、カップルで吉野家は場違いな気がしたが、僕もやはりここにいるさえない客の一人に違いないと思った。いや、ここに居る誰よりも自分は罪深い気がしていた。

「並一丁!」

 食べたその牛丼に味はなかった。しょっぱいだけのご飯を無理やり腹に詰め込むと、二人は顔を見合わせて席を立った。

「じゃあ、行くか……」

 

 マンションのエントランスには出て行った時と同じく、真紅のシクラメンが咲き誇っていた。僕は少し歩みを止めて花を眺める。もうこの花を見ることはないと思っていたのに。 帰って来たのか。

「きれいなシクラメンやね」

「うん」

「なあ、赤いシクラメンの花言葉、知ってる?」

「いや」

「強い、嫉妬や」

 ぞっとした。まるで血で赤く染めたように見えた。僕たちはそれ以上何も話さず、エントランスに入った。自分の家なのに、何気なく押したオートロックの暗唱番号一つにも違和感を覚えた。

 そして僕は、エレベーターの中でもう一度友里をぎゅっと抱きしめたが、友里が僕を抱き返すことはなかった。

 このエレベーターで、今は亡き、翔一君や、他の車椅子の子供たちを部屋まで誘導した時には、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。

 その時、僕の脳裏にふと伊藤さんの顔が浮かんだ。彼女は恨めしそうに僕を見ていた。咄嗟に僕は思う。

「そんな目で僕を見ないでほしい。あなたも罪深い人間の一人ではないか。あの事件がなければ、自分たちはこんなことになっていなかった」と。そう思った瞬間に僕の頭から亡霊は消え去った。僕はもう一度友里のやわらかい唇を塞ぐ。

 ――友里は一瞬眉をひそめた。

                                     続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み