第56話 あかん……

文字数 2,394文字

「女はな、女の幸せはな、愛した人との子供を産むことやってよく言うけど、わたし、あの子見てたらそれだけじゃないなって思った。翔一くんを育ててる彼女はほんまに輝いてやった。ああ、父親の分まで愛情注いでるってわたし思ったもん」

「だからこそいつも苦しむ翔一くんを見るたびに自分を責めてたんや。全部自分のせいでこんなことになったって思ってたんや。僕、思うんやけど、彼女、前うちに遊びに来た時もな、顔では笑ってたけど、心の中ではずっと泣いてんとちゃうかな。それを精一杯隠してたんや。負けるもんか、絶対に負けるもんかって」

「うん。わたしもそう思う。七年やで、そんな長い間、起きてる時も寝てる時も、どんなときでも、ずっとな、心の中で翔一、しんどいな、辛いな、ごめんな、って謝ってやったんや。なあ、あの子が一体何をしたって言うの? なんであんなに辛い目にばっかり合わされるの?」

「だからあの朝、翔一くんが車椅子から落ちた時、ためらったんや。もう限界やったんや」

「ためらうよ。普通。そんな長い間、ほんでこれからもずっと、いつまで続くかわかれへんねんよ。それ、全部、翔一くん苦しむの、全部、自分が悪いって思ったら……」

「翔一くんもきっとそれ、わかってやったんやな。自分が苦しめば苦しむほど、伊藤さんが苦しむんやって言うことが」

「だから、いやいやって首ふりやった」

「悲しかったやろうなあ」

 僕は、あのお通夜の夜、うつむいて声も出さずに泣いていた伊藤さんの顔を思い出していた。

「悲しいに決まってる!」

 急に友里は僕の方を向き、吐き捨てるように言った。僕は戸惑いを隠せない。

「もしわたしやったら……ううん、わたしも、伊藤さんと同じやから!」

「伊藤さんと同じ気持ちってこと?」

 じっと僕の目を見つめる友里。友里の口がゆっくり開き、何かを言おうとしている。一瞬の沈黙の後、堰を切ったように友里の唇から言葉が溢れ出した。

 ――なあ、聞いて!

 僕はただこくりと頷く。

「ミヤに、ミヤに、酷いことしたんはわたしや! わたしがな、泣いてるミヤを床に投げつけて怪我させたんや。わたしがやったんや。ミヤがあんなんなったんはみんなわたしのせいなんや……ごめんな、ミヤぁ、ごめんな……」

 それだけ言うと、友里は声を震わせて泣き始めてしまった。僕は何も言えなかった。その事実の真偽を問うことも、またそれについての説明を求めることもできない。

 ――なぜ友里はそんな大事なことを自分などに話すのだ?

 僕は理解できないでいる。でも泣いている友里を見ていると僕の胸まで掻き毟られるように切なかった。ただそっと抱きしめずにはおられなかった。

 友里の背中が小刻みに震えている。回した僕の両腕から友里の悲しみが伝わってくるようだ。友里は声を震わせて泣いた。その黒髪からは甘い香りがした。

 二人はそのままベッドに横たわり、そして僕は一人ベッドを離れようとしたが、友里は僕の腕を強く掴んだまま離そうとはしなかった。

「もう眠った方がいいよ」

「お願い、ここに、おって」

 僕は泣きじゃくる友里の髪をやさしく撫でた。彼女はゆっくりと顔を上げ、その涙に濡れそぼった黒い瞳がじっと僕の目を捉える。

「どこへも行かへん。ここにいるよ」

 ゆっくりゆっくり、僕は友里を胸に抱き寄せる。こんなにも悲しい気持ちなのに、どうしてこんなにも彼女が愛おしく感じられるのだろう。僕は友里の髪をやさしく撫でた。

 静子と、生まれたばかりの子供が病院にいる。一瞬、僕の脳裏をよぎる。だがすぐにその幻は友里の甘い香りでかき消されてしまった。彼女の濡れた瞳を頬に感じた時、胸を掻き毟られるような強い思いが湧き上がり、僕は友里を強く抱きしめた。それから友里の額に接吻をし、そして唇に唇を重ねた。

「あかん……」

 その時友里は、ほんの少し拒んだ。しかしその拒絶の言葉とは裏腹に、僕の背中に回された彼女の腕は緩まない。僕もぎゅっと抱きしめたまま離さない。

 どうして体はこんなにも辛辣に心を裏切ることができるのだろう。

 まるで耐えていた何かが爆発するように、友里も僕も激しくお互いの唇を求め合った。そしてとろけるほど甘くやわらかい友里の内側がすべてを包み込む。悲しみも苦しみも、厭なものすべてを包み込む。

 なんと皮肉なことに僕は、静子とは今だかつて一度も経験したことのない悦びを感じていた。ひとたびそれに身も心も乗っ取られてしまったら、抗うことなどけっしてできない。

 すべての人間、いや、すべての生き物が生まれ持った形のない本能の存在をはっきりと認識する瞬間だった。なぜ自分は生まれて来たのか、なぜ自分はここにいるのかを悟った瞬間だった。

 それは僕だけではなく、友里もまた同じだったはずだ。このような最低最悪な状況の中で僕たちは巡り合ってしまったに違いない。寸分の狂いもなく、見事に整合する鍵と鍵穴の存在に気付いてしまったのだ。

 そしてもっと言うならば、僕と友里の陥ってしまった関係は、軽い遊びや愛欲を満たすための行為から始まったのではない。

 つまりお互いの一番深い部分で交わってしまったのだ。初めのうち、僕の頭の中でごうごうと音を立てて吹き荒れていた罪悪感は、やがて彼女の中から放出される甘い麻薬の力で麻痺してしまった。

 僕は思った。これは些細な過ちに過ぎない。絶対に戻れる。陽の当たる、けれども急峻な坂を登ることに疲れた僕は、そこから少しだけ逸れて、緩やかな下りの脇道に入ってみたくなっただけだと。

 ことが終わった後、友里が僕に尋ねた。

「もう、これで終わり?」

「ああ……」

 入り込んでしまった谷へと続く脇道は、細く、生い茂る雑草が足元に絡みつく。ふと横を見上げると、すぐそこに戻るべき、明るい登り道は見えていた。

 ――帰らないと。

                                    続く
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