第62話 友里が一番嫌いな時間

文字数 2,442文字

 十一月半ば。次男の遼太が生まれて五ヶ月ほどが過ぎた。よその子の何倍も手の掛かる直也と、生まれたばかりの遼太。その上に仕事と家事がごく普通に加わって、あっという間に時間は過ぎ去った。だが不器用な僕には怒涛のように繰り返される日々の多忙さが、逆に救いとなっていた。

 しかしどんなに忙しくても、ふとした拍子に思い出されるのは友里のことばかりであった。友里に対する思慕の念は高まるばかりだ。ほんの少しでも空き時間ができれば、僕は何とかして友里に会えないかと思案を巡らせた。

 それは静子が家にいる日曜の午後のこと。僕はどうしても友里と会いたくて居ても立ってもいられなくなり、信じられない行為に及んでしまう。なりふりも構わず、どのような手段も選ばない。もうそれしか見えなくなっていた。

 僕は携帯電話の着信音設定画面でわざと静子に聞こえるように〝試聴音〟を数回鳴らし、さっと耳にあてがった。

「もしもし。はい。はい。そうですが。え? 今からですか? ああ、あれは会社のパソコンに入っています。あ、わかりました。すぐ持って行きます」

 遼太に掛かりきりになっていた静子がちらりと僕の方を見る。

「誰から? もしかして仕事?」

「ああ。急に資料を持って来いって」

「ええ? こんな日曜の昼間に?」

「うん。どうしても明日の朝一からの会議で使いたいらしいねん」

「ふうん。大変やね。何時頃帰るの?」

「たぶん夕方までには戻れると思う」

「ほんなら何かお弁当でも買って来てよ。わたし一人では買い物行かれへんから」

「ああわかった」

 目指すはあの上本町のドーナツショップだ。いそいそと家を出て行く僕に対して静子は何も疑う様子は見せない。それどころか、せっかくの休日を仕事で呼び出された僕に対し同情の目さえ向けている。

 僕はその目をちらりと見た時、罪悪感よりも、なんとかこの場をやり過ごすことができた安心感が勝っていた。まるで空いたジグソーパズルにピースを嵌めこむように、そのほんの少しの隙間を巧妙な欺瞞で埋め尽くした。それがぴたりと嵌った瞬間、僕の中の劣情はさらに燃え上がった。

 そして僕は、すべてを欺いて友里との逢瀬を重ねる。前回よりも今回。今回よりも次回。そしてそのまた次の回へと、回を追うごとに、少しずつ底なしの沼にずぶずぶと沈んで行く。もはや、つかまる枝すらもない。

 ことが終わり、友里はそのままゆっくりと僕に覆い被さるように倒れ込んだ。僕は彼女の白くやわらかい胸に抱かれながら、永遠とも一瞬とも思える時の中を泳いでいる。と、その時、友里のやさしい声が聞こえた。

「なあ知ってる?」

 僕は驚いて顔を上げる。部屋の隅には先ほどの友里の大きな喘ぎ声がまだ潜んでいるような気がした。部屋全体が淫靡さの残る湿った空気で満ち満ちている。

「なあ知ってる? 友里が一番嫌いな時間」

 この頃の友里は、僕の前では自分のことを「私」ではなく、「友里」と呼ぶようになっていた。

「え? 一番嫌いな時間? いや、わからへんよ」

「天宮さんの後姿を見送る時……」

 そうか、もうそんな時間か。僕は淋しそうに微笑んだだけで何も言わずその体を起こした。もう現実へ帰らなければならない。

「天宮さん。一つだけ友里のお願い聞いてくれる?」

「え? うん」

「わたしのお父さんになってくれる?」

「え? お父さん?」

「あ、忘れて。何でもない。あれ? どこ行ったんやろ。ない」

 そう言うと彼女は枕もとの照明スイッチをオンにした。ぼんやりと滲んだ赤と黒の部屋に、白いランプが一つ灯った。

「あ、あった! あんなとこに」

 友里は素っ裸のままでするりとベッドを抜け出した。背中から臀部に至る美しいラインがぼんやり浮かぶ。僕はそれを呆然と眺めた。

 ――ああ、なんてきれいな背中なのだろう。何もかもすべてが友里で出来ている……。

 彼女は床に落ちている下着を拾おうと身を屈める。膨らんだ陰部が顔を覗かせた。その刹那、僕は戦慄を覚えた。しかしもう欲情はしなかった。

 彼女はシャワーも浴びず、拾い上げた黒いティーバックの下着を身に着けると僕の方を振り向き、少し淋しそうに言った。

「さっきまで、あんなに愛し合ったのに、天宮さんは、もうさっきと違う顔やね。友里の天宮さんはもうおらへん。何もなかったように、自分の世界に戻って行くねんな……」

 彼女はおそらく僕が背後から自分を見ていたことを知っていたに違いない。だから見えたのではなく、見せたのだ。試したのだ。わざと。そして少し憤慨しているように言う。

「友里、いっつもここに置いてきぼりや。なんで男の人ってそんなにすぐ変われるのかなあ。友里なぁ、この時間がやって来るのが恐いから、もう逢いたくないって思うねん」

「な、次の日曜、ツーリングに行こか」

「え? ツーリングってバイク? どこ行くのん?」

「実はオークションで落としたバイク、ホンダのナナハンやねんけどな、週末に岐阜まで取りに行かなあかんねん。土曜の夜に電車で行って、日曜にそのバイクで帰って来るねんけど……」

「それって、もしかしてお泊りってこと?」

「うん。初めてのお泊りやね。行く?」

「連れて行ってくれるのん? ええの? 奥さん大丈夫なん?」

「俺一人で行くって言ってあるから大丈夫やで。な、行こうよ」

「うん。行く。嬉しい」



 暗い穴倉から一歩外に出て、僕は見上げる。高くて青すぎる空が広がっていた。眩しくてくらくらする。

 一ブロックほど歩いて千日前筋に出ると、道路にはたくさんの車が溢れ、スーツ姿の男性も、学校帰りの制服の学生たちも、道行く人は皆、何かに追われるように急ぎ足で僕たちの前を行く。今まで篭っていた世界とは相反する世界が広がっていた。現実だ。やがて僕もこの中に紛れ込むのだろう。何事もなかったように。

「じゃあまた連絡するわな」

 そう言うと、僕はまた、都会の雑踏の一部となった。もう振り向くことはなかった。

                                    続く
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