第63話 GUCCIのRush

文字数 2,912文字

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 一週間後。

「気を付けて。早く帰って来てな」

 玄関で僕を見送る時、静子はいつも同じことを言う。

「ああ。なるべく早く帰るわ」

 いつも通り僕は、同じ言葉を返す。でも今日は静子の目を見ないで言った。直也の笑い声が奥の部屋から聞こえていた。たぶんいつものビデオを見ているのだろう。ここには変わらぬ日常がある。

 マンションの入り口には大ぶりのシクラメンが咲いていた。その紅い花弁が妙に印象に残った。僕は一瞬立ち止まり、その玄関をじっと眺める。そして前を向いて歩き出した。もうすぐ十二月がやって来る。夜風は冷たい。

 その夜、二人は週末の雑踏に紛れて、新大阪駅のホームにぴったりと寄り添ってたたずんでいた。これから友里と二人きりで過ごせる。僕の頭の中にはそれしかなかった。

 まるで遠足に行く子供みたいにわくわくしていた。もう何も考えなくてもいい。もう邪魔されることもない。先ほどの直也の笑い声が一瞬思い出された。しかしもう気にならなくなっていた。

 列車の到着を告げるアナウンスが響く。ホームは列車を待つ帰り人や旅人であふれている。二十時十分発の東京行きののぞみが二十四番ホームへゆっくりと入って来た。

 友里が僕の腕にぶら下がるように掴りながら言う。

「なあ、ほんまに大丈夫なん?」

「うん。大丈夫。前から岐阜行きのことは話してあるから。友里ちゃんこそ、子供ら大丈夫なん?」

「うん。お父さんとお母さん看てくれてる」

「そうか……ならいい」

 週末夜の新幹線は、混み合っていた。予め二人掛けの指定席を予約しておいて正解だった。切符を確かめながら僕は通路を進み、車両の中ほどに指定の座席を見つけた。

 僕が窓側、友里が通路側の席に座った。名古屋までは一時間足らずで着く。今夜は名古屋で泊まって、明日朝、中央本線で岐阜の中津川を目指すことにしていた。

 中津川で中古のバイクを譲り受けることになっていたが、今となってはただの口実に過ぎない。

 二人を乗せたのぞみ号は、音もなく、するすると夜の深みへと旅立った。肩にもたれかかる友里から、GUCCIのRushがふんわりと香る。大好きな友里の香りだった。

 今夜はずっとこの香りに包まれていても構わない。移り香が付いても構わない。何もかもを忘れさせる。そっと友里の髪に鼻を押し付ける。二人の時間だけをそこに置き去りにして、のぞみ号は時速二百五十キロで目的地を目指してひた走る。

 僕は友里の頭を撫でながら、通路を隔てた向かいの窓の方を見る。明るい車内の様子が、まるで大きな鏡のように映し出されていた。

 たくさんの人の顔がそこにはあった。旅人、帰り人、はしゃぐ子供とそれを嗜める母親、じっと目を閉じたまま身動きしない女性、ノートパソコンに向かう出張帰りらしきスーツの男、それらはごく普通の光景であり、現実の世界だ。

 いや違う。僕はその考えをすぐに打ち消した。本当の現実は、ここではない。だからこの鏡に写る世界は、きっと幻に違いない。

 今度はすぐ右の暗い窓に顔を近付ける。小刻みな振動とひんやりとしたガラスの冷たさが伝わる。左手をおでこにかざして外をじっと目を凝らして見ると、どこかわからない暗い原野の中に、立て看板やら河川やら遠くの灯りやらが、目にも留まらぬ速さで後方へと弾け飛んで行く。ふと思う。一体自分たちはこんなにも急いでどこへ向かっているのだろうか、と。

 ――破滅へさ。

 燃え尽きたあの男が、僕の耳元でそっと囁いたような気がした。その時僕は突然理解した。あの男が焼身自殺を図った本当の訳を。

 自分の思いが遂げられなかったからではない。自分がどれほど愛しているかをアピールしたかったわけでもない。あの男は初めから女がいっしょに来ないことはわかっていた。

 そうだ。初めから死ぬつもりだったのだ。だからこそ灯油入りのポリタンクを用意していた。腹いせに自殺を図ったのではなく、自分の燃える姿を女に見せることで、彼女の記憶の中に一生留まろうとしたのだ。つまり彼女の記憶の中で生きようとしたのだろう。きっとそいつはうまく行ったに違いない。

 遠く暗い景色がどんどん後ろへと流れて行く。今の僕も友里の記憶の中に一生留まることができるだろうか。

 と、その時、不意に友里の左手が、僕の右手をぎゅっと掴む。その手は小刻みに震えていた。友里の方を向くと、友里は何かを訴え掛けるような目で僕の目をじっと見つめた。

「どうしたん? 大丈夫?」

「あ、あたし、天宮さんに言わなあかんこと、あるねん」

「何? どうしたん?」

「電車とかな、わたし、あかんねん」

「え? どう言うこと? 乗り物酔いとかするの?」

「ううん、違うよ。パニック発作って知ってる?」

「ああ聞いたことあるよ。電車とか飛行機とかで急になるやつやろ? 要は、閉所恐怖みたいな感じ?」

「ちょっと違うけど、まあ似たようなもん。すっごく不安になるねん。立ってられへんぐらい、息苦しくなって、胸の辺りがきゅーってなって、勝手に涙がぼろぼろ出て、とにかく恐くなるねん。せやから、長時間乗る新幹線とかあかん。一人ではたぶん無理やと思う」

「大丈夫、僕がずっと付いてるから大丈夫や」

「うん、ありがとう。ごめんな、迷惑かけて」

 僕は、友里の肩を抱き寄せて、左手で彼女の震える手を強く握った。

「大丈夫やから」

 通路を挟んで隣の三人掛けの席に座る年輩の女性がいぶかしい表情で僕たち二人を見ていた。そう若くもない男女が、乗客の多い車内でべったりと抱き合って座っているのだ。

 それは一瞬で不倫旅行だと見抜かれたかもしれない。けれど、もう僕には何も気にならなくなっていた。ちょっと前までの僕からは考えられない。

 強く友里の頭を胸に抱きながら、僕はぼんやりと思い出していた。あれは八月のとある平日のこと。仕事中にもかかわらず、僕は友里と逢瀬を続けた。

「なあ、もう逢えへんって言ってたやろ? せやのに、なんでまた逢うてくれたん?」

 上本町近鉄百貨店の階段で、友里は立ち止まって尋ねる。平日の昼下がり、百貨店の階段を利用する客はほとんどいない。人影もまばらなその場所は、二人にとって格好の逢瀬の場所となった。

 年の割には童顔な僕に対して、身長は低めだが、元来目鼻立ちのはっきりした面立ちの上、上手にメイクを施す彼女は年よりもずっと大人びて見えた。

 この頃から友里は自分のことを「わたし」ではなく「友里なあ」と名前で呼んだ。それは決して周りの目を意識して言うわけではない。そんなだから、大人びて見える外見と、その甘えた子供のようなしゃべり方に随分とギャップがあった。

 きっとそれも彼女に備わった魅力の一つなのだろう。同性には決して受け入れられないだろうが、年上の男性があの甘えた声で「友里なあ」を聞くとたちまち骨抜きにされてしまう。

「なんでまた逢うてくれたん?」の質問にもきっちり甘えた響きがあった。その時僕は答えることはできなかった。自分でもはっきりとした理由が見つからなかった。元より逢いたいと思う気持ちに理由などはないのだから。

                                     続く
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