第39話 ウソつかれへん人

文字数 2,180文字

 部屋に入ると、座卓テーブルに向かって座る直也の小さな背中が見えた。すぐ傍に先ほど直也を取り逃がした近藤と、その向かいには幼い女の子と、女の子の隣には母らしき女性が乳飲み子を抱きかかえて座っていた。

 僕はその小さな女の子に目が行った。

 ――ピンクのヘッドギアを着けていたのだ。見覚えがあった。どこだったか。年はたぶん直也と同じか、もしかしたらもう少し上かもしれない。

 皆テーブルに向かって一生懸命に何かに取り組んでいたが、赤ん坊を抱いた女性がおもむろに顔を上げ、僕を見て、「あ、こんにちわぁ」とやさしく言った。

 若く美しい母親だと思った。艶のある黒髪、二重の大きな瞳、少し陰のある目元、確かどこかで……ああ思い出した。昨年、運動会で会った親子だ。けれど名前まで思い出せなかった。

「あ、お父さん。すみません」

 近藤がにっこり笑いながら僕に話しかけようとした時、直也も振り向き、その顔は得意満面の笑みに溢れていた。

「直也ね、これまだ途中やったみたいで」

 テーブルの上にはトレーに色とりどりの細かいビーズのような粒が無数に載せられていた。それを子供たちは小さな指で一つずつ摘んでは手元のパネルに嵌めて行く。

「それは?」

「アイロンビーズです。今ここですごく流行っていてこの子ら朝からヒマあったらここに来てずっとこれやってやるんですよ。もう何日も」

「アイロンビーズ?」

 良く見るとそれは球体ではなく、色とりどりの、細いストローのようなチューブを細かく輪切りにした円筒形で、それをこれもまた小さな剣山のような樹脂パネルにたくさん並べて点画のような絵を形作っていく。とても緻密で根気の要りそうな作業だ。

「これね、並べたらアイロンでぎゅっと押し付けて絵にするんですよ。あんなふうに」

 彼女は壁の方を指差した。僕は横の壁を見上げる。そこには子供たちの力作が何枚も飾られていた。花や、動物や乗り物、そのどれもがみごとだ。これをこの子たちが作っているのかと思うととても感動を覚えた。

「直也の作品もあるんですよ。あれ」

 彼は近藤の指差す一際大きな一枚の絵を見た。その大部分をグレーと白の地味なモノトーンで塗られたその絵は人でも動物でも花でもない。それは交差点だった。片側三車線の大きな道路が交差する、どこかの交差点を真上から見た絵だった。

 いや、絵と言うより写真のようだ。その交差点に見覚えがあった。道路に表示された矢印や車線、幅、そのすべてがまるで正確に測られたように描かれていた。

 それは他の並べられた作品とは違って、とても無機質な感じがした。けれど、何か心に訴えるものがあった。間違いなく直也の作品であり直也の感性そのものだった。僕はその作品をただじっと見つめた。

「お父さん、すごいでしょう? 直也、きっと、お父さんに見せたかったんですよ。これ」

 僕は知らなかった。直也の興味のあるものは〝おかあさんといっしょ〟のビデオを見ることぐらいだと思っていた。いつのまにこんなことができるようになったのだろう。ふと横を見ると直也が隣に立っていっしょに自分の作品を見ていた。やはり満面の笑みを浮かべながら。

「この子ね、すごい能力持ってるんですよ。一回通った道とかね、すべて覚えていて、後からそれを真上から見た平面図で描きやるんですよ。まるで頭の中に精巧なカメラがあって、パシャっとシャッターが切れるようになってるんやと思います。ね、記憶だけでこれだけ描けるってほんまにすごいでしょう」

(記憶だけで!)

 僕は言葉が出なかった。改めてその作品をじっと見つめていたその時だった。

「ねえねえ、直也のお父さん」

 ヘッドギアを装着した小さな女の子が僕の横顔をじっと見つめていた。

「直也のお父さんもいっしょにやってみる?」

「え、ご、ごめんね、今日はもう遅いから」

 その子はちょっとだけ悲しそうな顔をした。僕はその悲しげな表情に対してどのように接すれば良いかまったくわからない。そんな僕の当惑した様子を近藤はどこか楽しげな様子で傍観している。

「こら、ミヤ、あかんよ。直也のお父さん困ってはるやんか」

 横に座るお母さんが見るに見かねて助け舟を出す。

「すみません、僕、こういうの苦手で」

「コンちゃんも人、悪いなあ。だまってニヤニヤして。直也のお父さん、顔真っ赤にして困ってはるやんか。何か言うてあげえな」

「嫌やわ、村井さん、酷いわ。あんた。まるでわたしがお父さんの困った顔見て楽しんでるみたいやん。て、その通りやねんけどな」

「あはは。やっぱりやん。せやけど、直也のお父さん、正直でええ人やね」

「ほんまや。絶対ウソつかれへん人やな。あはははっ」

 僕はなぜか、近藤の言った一言、絶対ウソつかれへん人、と言う言葉が妙に心にひっかかっていた。人にそんなふうに思わすことも立派な嘘つきなのではないか? と。

 しかしそんな僕の心とは裏腹にその場は彼女たちと子供たちの笑い声に包まれていた。その笑い声はまるで魔法のように、僕の心の垣根を一瞬で消し去った。

 その時僕は理解した。この明るい笑い声が人にやさしさと温かさをもたらすに違いない。あんなに苦しんでいた静子が、ここに来るようになって見違えるほど明るくなった。こうやって閉ざされた心を解放されたのだと思った。

                             続く

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