第84話 運動会

文字数 2,850文字

 ――運動会当日。

 直也の小学校では僕はすっかり顔なじみになっていた。毎日お迎えに行くものだから、同級生のお母さん連中からは、学校に一番やって来るお父さん、と言われるまでになっていた。しかし、都の小学校へやって来たのは初めてだ。

 先生も保護者も誰一人知る者はいない。だいたい小学校の運動会などに、男一人が、のこのこ出かけることなどほとんどないのだろう。しかも望遠レンズを付けた一眼レフをこっそり構える姿は、どう見ても不審者のそれだった。

 僕はシャッターチャンスを窺いながらファインダー越しにじっと都を見ていた。都は競技フィールドの外、ロープが張られた児童の待機エリアに座っていた。立てた膝の上に顔を埋めてじっと動かない都。と、その時、都が急に顔を上げ、後ろを振り返り、すぐに立ち上がって、背後にいる誰かと話している。

 大人の男女二人連れだった。華奢な感じの男とストレートの長い黒髪の女が、親しそうに都と話をしている。

 あれは! そうだあれは、友里の夫である祐一とその彼女であるメロディさんに違いない。すぐにわかった。見たことはなかったけれど、友里からは、二人の、特にメロディさんについての容姿や、もう二年も子供たちの親権のことで争っていること等々、友里を精神的にも経済的にも苦しめていると聞かされていた。

 二人は少しの間、都と言葉を交わして、その後すぐにどこかへ消えた。競技中に児童の席に保護者が近寄ることはあまり芳しくないことなのだろう。本当は彼もできるだけ都の近くで写真を撮りたかった。

 しかし祐一とメロディさんが僕の知らないどこかで都を見ているやもしれず、傍へ近づくことはできなかった。何としても僕は二人に会いたくなかったのだ。

 それからしばらくして、二年生の競技が始まった。徒競走だった。しかし普通の徒競走ではない。なんと参加者全員が後ろ向きに走るのである。

 ゴールからビデオの逆回しのようにスタートを目指すのである。なるほど逆に走るのはなかなか難しいようで、まずまっすぐ走れない。どの子も足元のコースを注視して、尚且つ何度も背後を振り返りながら走るので、単純に足の速さだけでは勝負は決まらない。彼も何度か直也の運動会を見学したけれど、こんな風変わりな種目は初めて見た。

 子供たちは皆必死に走った。観客としてもこれは見応えがあった。いよいよ都の順番が来た。いっしょに走る児童は都を含めて五人。位置について、ピストルが鳴る。おそらく五十メートル、いやそんなにもない直線を都たちは一生懸命後ろ向きに走る。

 このシャッターチャンスを逃すまいと、僕は保護者席のロープぎりぎりまで前に出た。そして大きな望遠カメラを構えてそのファインダーを覗く。懸命に後ろ向きに走る都のその表情にピントを合わせて何度もシャッターを切る。

 都は自分の子供ではない。しかし、他の子供たちよりも都の真剣な表情は、僕の心に訴えかけるものがあった。そしてシャッターを切りながら僕は都を守りたいと思った。懸命に逆走する都に声にならない声援を送った。

 と、次の瞬間、都の足がもつれる。後ろ向きに走っている途中でバランスを崩してしまった。大きく尻もちをつく都。その目は遠い空を見ている。周りから悲鳴にも似たどよめきが聞こえた。

 その刹那、僕は思わず「あっ」と叫んでしまった。起き上がる都。すぐにまたレースに復帰してゴールを目指す都。けれども残念ながら、転倒のタイムロスは大きく、五人走った中で都は最下位になってしまった。

 競技が終わり、子供たちが一斉に退場する。都も再び自席へと向かう。悲しい表情をしていた。僕は都を労ってやりたかった。「良く頑張った」と褒めてやりたかった。体は大丈夫か? と問い掛けたかった。

 その昂った気持ちを抑えることはできなかった。そして児童席へと近づく。

「ミヤコっ!」

 僕は後ろから声を掛けた。都が振り返る。僕の顔を見て、少し照れ臭そうに微笑んだ。どうやら怪我はしていないようだ。すぐカメラを構えてシャッターを押した。

 すると横にいたジャージ姿の担任の先生らしき男性が、僕の方を見ながら申し訳なさそうに両手を自分の顔の前に出しで小さなバツを作った。保護者立ち入り禁止の合図だ。

 僕は都に手を振りながら速やかに立ち去った。でも十分に都に僕の意思は通じたに違いない。僕は満足だった。良い写真もたくさん撮れた。きっと友里の喜ぶ顔も見られることだろう。

 運動会はお昼休憩に入った。家に幼い子供二人を残して来ていた僕は、もうここが限界だろうと、運動会を後にした。

 

 家に戻った僕は、玄関を上がり、リビングに入った。二時間ほどであったが、幼い子供二人だけを家に残して出ていたことに不安を覚えていたが、奥の部屋から直也と咲希の声が聞こえていた。二人でテレビゲームに夢中なのだろう。

 その時、リビングの木製キャビネットの上に置かれた電話機のランプが点滅していることに気付いた。

 僕は留守電のボタンを押した。自動音声が流れ出す。

『お預かりしているメッセージは一件です』

「もしもし、村井と申しますが……」

 男性の声だった。村井? 村井は友里の姓である。ハッと気付く。

祐一だった。雑音混じりのその声が、電話機のスピーカーから静かに響く。

 

 『うちの子供を追いかけ回すのやめてくれ。

 おまえ気持ち悪いねん。

 これ以上子供に付きまとったら警察に通報するで』



 僕はショックで気が動転しそうになった。

 運動会を見に行けない友里の代わりに、ただ都の写真を撮りに行っただけなのにストーカー呼ばわりされるなんてあんまりではないか。しかも今現在、都と寝食を共にして、世話までしているのは僕である。本当の父親である祐一から礼を言われることはあっても誹謗される覚えはない。

 僕はかつて、友里が怒りながら「言葉の暴力も立派なDVです」と言った言葉をふと思い出した。確かにこれは暴力だと思った。このまま放って置くのはまずい気がした。何かしら反論しないといけない。そうでなければ本当にストーカーだと認めることになってしまう。 

 そこで僕は、その夜、友里にこの留守電を聞かせてみた。

 友里は言う。

「この人はこういう人やねん。おかしいやろ? 物事を冷静に判断もできへん。な、わかったやろ? あたしがどんだけこの人から苦しめられてるか」

「それはわかる。でももしかしたら僕が子供らも、友里ちゃんも、その全部を旦那さんから奪って行った元凶やと思われているかもしれん」

「そうかもな。単純な人やから。自分のやってきたことは全部棚に上げて、何かあったらすぐに他人のせいにするんや。だいたい天宮さんと出会う前にあたし、都と咲希を連れて、とっとと家から、旦那の下から出て行ったのに……。天宮さんの方が後からや。そんな時系列すらわかってないねん」

「友里ちゃんが家を出た理由は、僕と付き合うためやったって思ってるかもな」

「きっとそうやと思う」

 そこで僕は祐一に手紙を送ることにした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み