第86話 病院からの緊急連絡

文字数 2,835文字

 うつ病ぐらい、パニック障害ぐらい、そんなもの重篤な身体の病気に比べたらたいしたことではない、などと考えていたら酷いしっぺ返しを食らいますよ、と、岡田医師は警告をしているのだ。

 今一度襟を正さねばなるまい。それぐらいこの病気は厄介であり、普通ではない。まず必要なのは意識改革だった。

 ただ僕は今まで重度の発達障害を持つ直也と接して来て、尋常ではない、普通ではない、と言う意味が少しは理解できているつもりであった。直也の発達障害は、はっきりと目には見えない。見えないが、親である僕自身、その苦しさを身に沁みてわかっている。

 見えないと言う点では友里の病もまた同じである。友里とこれから共に生きて行くと言うことは、病気と共に生きて行くと言うことなのだ。それはきっと今まで以上に覚悟が必要となるに違いない。僕はその責任の重さを感じずにはいられなかった。

 そこで僕は今一度、原点に戻って考えてみた。

 僕が引き起こした凄まじい嵐の吹き荒れた跡には、その激しさを物語る生々しい傷跡があちこちに残っていた。その嵐に巻き込まれた人すべてを傷つけ、破壊の限りを尽くした果てに、常軌を逸した不倫劇にようやく、終止符が打たれた。

 ――その結果として。  

 失ったもの……静子、遼太、多額のお金、社会的信用。  

 得たもの……直也、友里、都、咲希、罪悪感、そして人を愛する心。

 遼太や静子には取り返しのつかない仕打ちをしてしまった。その罪は重いし、決して消えることはないだろう。一生かかってでも償わなければなるまい。

 けれども、僕をそうさせたのは、やはり心から友里を愛していたからに他ならない。ならば、とことん彼女に付き添うのは当たり前のことではないか。それがどんなに大変な道であろうと。

「もう一度聞きます。あなたは本当に最後まで村井さんの抱えている病気と向き合う気持ちがありますか?」

 岡田医師は再度尋ねる。僕は答える。

「はい、あります。逃げません」

 それはまるで、結婚の誓いの言葉のようだと思った。この誓いがこれからの僕の人生に大きな意味を持つに違いない。そんな予感がしていた。そうだ、これは、事実上、岡田医師が神父で、僕と友里の誓いなのだと思った。

「わかりました。わたしもできる限りの協力をいたします。これから三人で頑張って行きましょう。きっと良くなります!」

 神父役の岡田医師が僕らの旅立ちを励ます。これで結婚成立なのだろう。初診が終わって、病院を出る時、友里が僕にやさしく微笑みながら話しかける。

「ごめんな、仕事休ませて付き合ってくれて。けどありがとう。嬉しかった。あたし、また天宮さんに迷惑掛けるかもしれへんけど、どっこも行かんといてな」

 僕は大きくうなずいた。もちろん、どこへも行かない。ずっと傍で友里を守ろうと思った。それが自分の進むべき道であると信じている。

 けれど、一瞬、僕を見つめる遼太の顔が脳裏をよぎった。



 それから八ヶ月ほど過ぎ、季節は春になった。

 岡田医師に約束した通り、僕はそれまで以上に友里の病気に寄り添おうとしていた。でも僕がどんなに一生懸命に尽くしても、友里の病状はますます悪化の一途を辿り、改善の兆しを見せることはなかった。

 その上、強い処方箋の副作用で眠っていることも多くなった。また起きている時でも、大量に酒をあおったような酩酊状態となってしまい、まともに呂律すら回らない。

 そのせいで夜の仕事は続けることが困難となった。風俗業とは言え、客商売であるので、普通に会話もできないようではやっていけない。

 しかし友里はそれまで、半年以上も店でトップの売り上げを保持していたので、当初一千万あった彼女の借金、支払うべきマンションのローンはたった一年足らずですべてを完済していた。

 そして彼女は風俗から足を洗い、新大阪駅の近くにあるメイクサロンに勤めるようになる。僕はそれまで続けていた風俗店へのお迎えこそ行かなくてもよくなったが、友里からの緊急SOSの回数は増える一方だった。 

 そのたびに僕は、TPOに関係なく、友里が出先で倒れたなら、すぐに車で迎えに行く必要があった。

  

    ※

 

 それは四月上旬のある平日昼間のことだった。

 午前中の仕事を片付けて、僕は会社を出ていつもの定食屋へと向かっていた。

 ビルディングの谷間からゆっくりと仰ぎ見た空には一片の雲さえなく、陽射しが眩しかった。甘い沈丁花の香りが鼻をくすぐる。きっとどこかで咲いているのだろう。街は春の色に溢れていた。今年もまたやさしい春がこの街にやって来ていた。オフィスに上着を脱いで来なかったことを少し後悔していた。

 僕は、歩きながら、いつものランチメニューをあれこれと思い浮かべ、何を食べようかと思い悩む。それは、多忙を極める僕にとって本当にささやかな至福の時間であった。すれ違う人もみんな穏やかで良い表情をしている。

 と、その時、穏やかな春の陽気を打ち消すように僕の携帯が鳴り響き、鳩尾をぎゅっと締め付けられたような痛みが走った。

 恐る恐る携帯を取り出してそっと開いて見る。さっきまでの春の陽気に浮かれた気分はもうどこにもなかった。それは友里のかかり付けの病院からだとわかる、大阪警察病院の表示であった。嫌な予感がする。僕は、重苦しい気分で携帯を耳に当てた。

「はい、もしもし」

「あ、天宮様の携帯でよろしかったでしょうか?」

「はいそうですが……」

「こちらは、大阪警察病院の心療内科です。今お電話よろしいでしょうか?」

「あ、はい」

「お忙しい時に申し訳ございません。あの、村井友里さんのことで……」

 今朝出がけに友里は、今日は心療内科の受診日であると僕に告げていた。ほんの一瞬ではあったが、僕の表情から憂いがこぼれた。

「あ、村井がどうかしたのですか?」

「あ、詳しいことは来院されました時にご説明させて頂きますが、ちょっと事故がありまして、あ、まあ命には別状はありませんが、ただ足を骨折しておられましてね、しばらくこちらで入院していただくことになると思います」

「え! 入院ですか!」

「はい。それで、もし本日、お時間があるようでしたら一度ご来院お願いしたいのですが?」

「そうですか。わかりました。今日、できるだけ早くにお伺いします」

「では来院されましたら直接、心療内科受付にお越し下さい。よろしくお願いいたします」

「はい。わかりました。わざわざご連絡、有難うございます」

 それで電話は終わりだった。淡々とした事務的な会話である。しかし、その事務的な会話の中にも、すでに僕の来院を想定した有無を言わさぬ強引さが感じられた。それもそのはず。僕にとって、こういったやり取りもこれで何度目だろう。ただ、今回は、警察が友里を保護していると言う知らせではなく、病院からの電話で、しかも命に別状はないと聞いて、多少なりともほっとしていた。

 

                                  続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み