第81話 三角公園

文字数 3,166文字

 さて静子がいなくなり、友里もまた僕の前からいなくなって四ヶ月が経った四月。直也の入学式があった。僕はその日、会社を休み、直也の手を引いて小学校の門をくぐった。

 ほかの大勢の子供たちは両親共に来ている。あるいは母親と来ている。父一人子一人は僕だけだった。

 直也は支援学級に所属している。この学校では支援学級とは言わず『なかよし学級』と呼ばれていた。教室の入り口にも、なかよしと書かれた表札が上がっている。事実、支援を必要とする学級なのだから支援と言えば良いではないか。これも痛い配慮であると僕は感じる。そして直也はなかよし学級に属してはいたが、授業は普通学級で受けさせてもらえることになった。

 新一年生クラスは、二クラスあり、児童の数は一クラス約二十人。二クラス合わせても四十人そこそこ。それでもこの地域の小学校としてはまだ多いのだそうだ。少子化の波は現実として押し寄せていると感じる。

 僕はほかの保護者とは違い、例外的に第一回目の授業の見学が認められた。これも支援児童に対する特別な配慮なのだろう。心のどこかで違和感のある優遇措置だと感じながら、その日も僕は出社を少し遅らせて学校の門をくぐる。ゲストの入校証を首から下げ、一年の教室に向かった。出会う職員の人々は皆、礼儀正しく僕に頭を下げる。僕も頭を下げるが、何かが違うという感が拭えないでいた。

 黒板には紅白の造花で飾られ、『入学おめでとう』のカラーチョークで書かれた太文字が目を惹く。児童二十人に対し、主担任が前の教壇に一人と、授業中、自由に席を動き回ることのできる補助教員が一人の、二人体制で授業は進められた。

 教室には直也のほかに発達障害の子供がもう一人いて、補助教員は支援の先生が担当していた。しかしその児童の保護者の姿は見えず、結局、授業見学は僕一人だけだった。

 ちょっとの時間もじっとしていない直也の横にはその支援の先生が付ききりで指導をしてくれる。僕は大変に有難い、いや、他の児童に対して申し訳なささえ感じていた。方針はよくわかる。障害のある子もそうでない子もできるだけ同じ教室でみんなといっしょに学ぶことが大切なのだろう。

 その日の授業がすべて終わったら、他の児童たちは三々五々それぞれが帰路に就く。けれども低学年や、あるいは支援学級の児童は必ずお迎えが必要とされる。しかしながら、僕も含め、働いている親は、平日の昼間などに迎えに行くことはできない。

 そんな親たちのために、有難いことに通称『いきいき』と呼ばれる学童保育があった。それでも学童の終わる夕方五時ぐらいには必ず迎えに行かなくてはならない。

 幸いなことに僕の会社は、勤務時間をある程度、自分で調整することが可能であった。会社から学校まで車かバイクなら十五分もあれば通える。そこで僕は二人乗りのできる小型バイクと直也が被る子供用のヘルメットを買い、車をやめてそれで通勤することにした。

 僕は上司の許可を得て、夕方、学童の終わる時間帯に二時間だけ中休憩をもらって職場を離れた。そして学校まで直也を迎えに行き、家に連れて帰ってそのまま夕食を食べさせる。すぐ職場に戻って、し残した業務を片付ける。

 過密スケジュールだった。ゆっくり休むこともできなくなるが、この方法でしか、直也を育てられなかった。だからすべてが終わって床に就くのは毎日午前二時三時になることもあった。自分の時間など、週末の夜中に僅かばかり取れる程度であった。

 でも僕にとって逆に良かったのかもしれない。友里のことを思い出す時間などないことが……。 



    8

  

 五月。夜風が生温くなり始めた頃のこと。相変わらず友里からは何の音沙汰もなかった。でもいつ電話が掛かって来ても良いように、携帯は肌身離さず持っていた。

 僕は映画を観ることが趣味であり、その週末の深夜もビデオをレンタルして好きな映画に没頭していた。

 恋愛映画はあまり観ない彼だったが、その夜、借りたのは、その前の年に上映された「スゥイート・ノベンバー」という恋愛映画だった。キアヌ・リーヴスとシャーリーズ・セロンの二人のたった一ケ月だけの切ない恋の行方を描いたラブストーリーだ。

 あれは昨年、静子の眼を盗んで友里との逢瀬を繰り返していた頃のこと。二人でこっそり観に行った映画だった。不覚にも僕は友里の前で泣いてしまった。そんなDVDを借りたなら、否が応にも彼女のことを思い出してしまう。そんなことはわかっている。わかっているが、観ずにはおられなかった。

 僕は限られた時間の中で命を燃やす二人の姿を見て、まるで自分のことのように感じていた。深夜のテレビ画面にじっと見入っている。その時だった。

 携帯が鳴った。

 ――もしもし、あたし……。

 その声から、憔悴しきった表情が容易に想像できる。

「もしもし」

「迎えに来て」

「今どこにおる?」

「三角公園。アメ村の……」

「わかった。すぐ行く」

 僕は携帯の時計を見る。もうすぐ午前一時になろうとしていた。直也はよく眠っている。僕は慌てて部屋を出て車に乗り込んだ。

 僕の家からアメ村まで三十分もかからない。土曜の夜の西心斎橋界隈は、若い飲み客が多く治安が良いとは言い難い。そんな酔っ払いのたまり場のような公園に、精神状態の悪い友里がたった一人ベンチに座っていたら? ハンドルを握る手に力が入る。

 公園の横でハザードを出し、慌てて車を降りる。狭い公園の中央の一段高くなったところに何やら人が集っている。車からはよく見えなかったが、今、その数人の背中に大阪府警の白文字がはっきりと見える。

 近付くとベンチには黒い服の女性らしき人が寝そべっているように見え、その女性を取り囲むように三人の制服警官が立っていた。

 ――友里だ。

「あの、すみません」

 僕は声を掛ける。警察官は振り返った。ベンチの友里はゆっくりと体を起こす。

「おたくは?」

「その女性の家の者です」

「ああ。良かった。こんなとこで女性が一人で寝てたら襲われるで。さっきまで碌でもない連中にいたずらされてたんやで」

「すみません、お世話掛けます」

「すぐこの向こうが交番やからな、自分ら飛んで来たんや。さあお姉さん、家の人来たよ。はよ帰りなさい」

 警察官は指さしながら言う。派出所が公園の向こうに見えていた。僕は警察官に礼を言いながら友里の傍へ駆け寄った。

「ああ、一応おたくの身元だけ確認させてもらえますか? 免許証持ってはる?」

「あ、はい」

 僕はショルダーバッグから財布を出して免許証を提示した。 

「はい、じゃあ気を付けて帰って。飲み過ぎたらあかんで」

「はい。ありがとうございます。友里ちゃん、堺の家まで送るよ」

 友里は僕の顔をじっと見ているが何も言わない。抱きかかえて立たそうとした時、懐かしいグッチのラッシュが鼻孔を刺激する。甘美な匂いだ。できるならこのまま僕の家に連れて帰りたかった。 

 警察官には酔い潰れていると思われたようだ。しかし友里は酒が飲めない。店が終わって、帰ろうとしたけれど、いつもの発作が起こってここで動けなくなったのだろう。

 友里を助手席に乗せ、自分も運転席に乗り込んだ。僕は運転席の方から友里の席のシートベルトを装着しようとした。

 助手席のいちばん左端にあるシートベルトのタングプレートを引っ張ろうと右手を伸ばした時、ちょうど友里とハグするような体制になった。  

 ラッシュの官能的な香りがより一層強くなる。

 故意だった。ベルトを締めるように、僕は匂いを嗅ぎに行ったのだ。匂いに包まれたかった。

 するとそれまでぐったりしていた友里が僕の胸に倒れ込むように抱きつき、「友里、帰りたくない」と耳元で囁いた。

                                    続く  
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