第70話 安物のハンマー

文字数 2,650文字

翌日、静子は友達二人といっしょに家に帰って来た。静子の目は真っ赤に腫れていた。朝まで泣いていたのだろう。

「携帯出してください」

 震える声で静子は言った。

 もう二度と会わない。みんなの前でそう誓いを立てさせられた僕は、それまで使っていた携帯電話を没収された。

 三人はそれをベランダまで持って行った。

 サッシの向こうには良く晴れた冬の青空が広がっている。三人がアルミ扉を開け放つと、ひんやりした空気が室内に流れ込んだ。僕は冬枯れの匂いを感じた。ベランダには向こうを向いてしゃがみ込む三人の背中が見える。

 僕は恐る恐るベランダに近付く。ベランダの端にコンクリートブロックが置かれていた。以前エアコンの室外機の台に使っていたものだ。

「しず、さあやり」

 そう言って友達の一人が持って来た小さなハンマーを静子に手渡した。ハンマーの柄には百均のシールが貼られたままだ。来る途中にわざわざ立ち寄って買った物に違いない。僕は頭の中で、三人が百円ショップでそれを購入するシーンを想像した。

 静子は右手に携帯を持ち、左手にその安物のハンマーを握りしめている。こんなものでも存分にその役割は果たすことができるだろう。そして携帯電話をブロックの上、真ん中辺りにそっと置いた。ハンマーを右手に持ち替え、握り締めたハンマーを顔の高さまで上げ、慎重に携帯電話めがけて振り下ろした。僕の目にはそのシーンがまるでスローモーションのように映る。

 コツン! 鈍い音がした。あっさりと一撃で液晶は割れた。彼女は一瞬だけそれを見つめ、そして再びハンマーを振り上げる。

 ゴン、ゴッ! ゴツン! 

 静子は何度も何度もハンマーを振り下ろす。彼女は泣いていた。僕の大事な記憶は、静子の怒りで粉々に砕け散る。

「静、もうええよ。もうええ、もう大丈夫や」

 友達の一人が静子を止めた。止めなければ永遠にハンマーを振り下ろしているように思われた。静子はハンマーを握り締めたまま、また泣いていた。

 

 その夜。

「あの、悪いけど、携帯なかったら仕事にならんから」

 僕は静子の反応を窺う。

「わかった。ちょっと聞いてみるわ」

(聞いてみる?)

 そんなことも自分で決められないのかと思った。

 すぐに静子はトイレに籠った。中から話し声が聞こえる。きっとあの二人に違いない。携帯を叩き潰しに来たあの連中だ。

 僕は考える。それは一見、静子のことを心配している風に見せながら、その実、自分たちの退屈な日常をこの騒動をネタに楽しんでいるのではないのか? きっと彼女たちにとっては、遠い対岸の火事に過ぎないのだろう。彼女たちも旦那に内緒でうまくやっているに違いない。――対岸の火事か。もう少し踏み込んで、火の粉を被ればいい。

 水を流す音が聞こえ、静子がトイレから出て来た。僕はテレビのニュースを見ているふりをする。

「携帯、買ってもいいよ」

 静子は低く暗い声で言った。できるなら携帯は持たせたくない。その思いが静子の表情には滲み出ていた。

「ありがとう。助かる」

「けど条件がある」

「何かな?」

 その条件とやら、僕の予想は大体ついていたが、さらにその上を行った。

 新しい携帯は機種変更ではなく、新規契約にすること。要するに、電話番号もアドレスも新しく変えること。そこまではいい。けれどその次に言われた条件で僕の心に燻っていた火がさらに燃え上がる。

 家に帰ったら、携帯を静子に提出しなければならない。それは仕事に行く時だけではなく、たとえば、ちょっとそこのコンビニへ買い物に行く時も、何かの用事で出て行く時も、とにかく携帯を持って家を出たなら、戻れば提出義務が発生する。

 実際に静子は、チェック項目を記したメモを見ながら、おかしな発信、着信歴がないか。知らない人からのメールがないか、それから削除済みフォルダの隅の隅まで徹底的に調べ上げた。そしてもし静子の知らない電話番号やメールがあれば、一つずつ、「これは誰?」と聞く。僕が「仕事の関係」と答えると、静子の目が無機質な光を放つ。僕は思わず目を逸らすと、静子は勝ち誇ったように「ふぅん、まあええわ」と言った。

 それから、僕が外にいる時に、静子は、何の予告もなしに僕に電話を掛ける。僕は、いつどこにいても、できるだけ速やかに電話に出ること。もしすぐに出られなくとも、できるだけ早く返信しなければならない。

 どう考えても異常だと思った。それは盗聴器でも仕掛けそうな勢いだった。僕はずっと監視されているようで息がつまりそうだ。

 その助言は、藁をも掴む静子に取っては、とても有難いものだったのだろうが、はっきり言ってこれは逆効果となる。浅はかな考えだと思った。

 そういうことをすればどのように反応するのか、その僕の心情のことなど何一つ考えていない。あの物見遊山な連中の入れ知恵なのだろう。僕の友里を思う気持ちは収まるどころか大きくなるばかりだった。



 この期に及んで僕は、何とかして友里と連絡を取る方法はないものかと考えに考え、結局、新しい携帯を二台買って、一台を友里に渡すと言うよくありそうな所に落ち着いた。

 僕は仕事中にこっそり友里の自宅まで新しい携帯を持って行った。何度も後ろを振り向き、尾行されていないことを確かめながら友里の家に向かった。生憎、友里はいなかったけれど、手紙といっしょに携帯をポストに投函した。ちゃんと手に届くこと祈りつつ。

 不安な時間は、ゆっくりと過ぎる。仕事も手につかず、僕はただ友里からの連絡を待った。そしてその日の夕方、帰宅前頃になって、ようやく友里からのメールが届き、慌ててメールフォルダを開く。そこにはこう書かれていた。

『携帯ありがとう。でももう会えません。携帯はお返しします』

 僕は大変なショックを受けた。

 なぜ? 思考が完全に暴走し、すぐ友里に電話を掛ける。

 耳に当てた携帯から呼び出し音が鳴る。

 一回、二回、三回、四回、五回。

「もしもし」

 六回目でようやく友里が電話に出た。

「会われへんの? 何で? 何でなん?」

「約束したやん。みんなの前で。もう会いませんって」

「言ったよ。でもあの時は、ああ言うしかなかった」

「嘘、ついたん?」

「…………」

 一体全体、友里は何を言っているのか、何を言いたいのか? その一言一句が僕には理解できない。

 やはりあの時、あの場で正直に「僕には無理です、従えません」と言うべきだったのか。しかし、と、僕は考える。

                                    続く
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