第54話 うちの子や、離せ!

文字数 2,577文字

伊藤さんは不安を覚えて、翔一くんをしっかり左腕に抱きかかえたまま、恐る恐る右手で寝室のドアを開けた。

 暗い寝室。手探りで壁の灯りを点けると、ベッドには金谷の着ていたと思われる上着や、ズボン、靴下、そして下着までが脱ぎ捨てられていたが金谷の姿はそこにはなかった。

 その時、聞き覚えのある男の、呻きとも喘ぎともつかぬ情けない声がバスルームの方から聞こえた。

 あの声は何だっただろう? 咄嗟に伊藤さんの脳裏に蘇ったのは、はるか昔に見た古い映画の中のワンシーンだったと言う。

 豚だ。屠殺される豚の断末魔にも似ていた。翔一くんを抱くその左腕にさらに力が入った。そして右手でゆっくりと音がしないように洗面所に通じるアコーディオンドアを開ける。

 いた。洗面所と浴室を隔てる扉は開けっ放しで、金谷は湯気の上がる湯船にその半身を仰向けに浸し、刺青の入った右腕を激しく動かしながら恍惚としていた。泡にまみれたグロテスクな金谷の狂気が目に入った。思わず翔一くんを抱くその手にぐっと力が入る。

 金谷はゆっくり伊藤さんを見た。翔一くんを抱きかかえたままの伊藤さんを飢えた男の視線が捉える。(やばい!)咄嗟に伊藤さんの背筋に戦慄が走った。

 金谷はザバッと勢いよく浴槽から立ち上がった。伊藤さんは凍りついたようにその場を動けない。次の瞬間、金谷は人間離れしたスピードで伊藤に掴みかかろうとした。その目は完全に常軌を逸している。

「やめて!」

 金谷の手を振り払い、慌てて後ずさった彼女は洗面所の框かまちに踵かかとを引っ掛けて派手に尻餅をつき、その衝撃であろうことか翔一くんを手放してしまった。白いフリースのブランケットから転がり出た翔一くんは一瞬の沈黙の後、火の付いたように泣き声を上げた。

 彼女は急いで立ち上がろうとしたが足と手に力が入らない。恐怖でその場から動くことができなくなってしまった。浴室の入り口で金谷が突っ立ったまま、泣き喚く翔一くんの方をじろりと見た。咄嗟に伊藤さんが翔一くんを守ろうと手を伸ばすよりも先に、金谷は獲物に跳びつく獣よろしく目にも留まらぬ速さで翔一くんに近付き、そして掴み抱き上げ、大声で言った。

「お前、こ、こいつ、ど、どこで拾って来たんや」

 呂律が回っていない。完全に酩酊している。

「あかん、やめて、何すんの! 翔ちゃんから手を離して!」

 彼女は懸命に翔一くんを奪い返そうとするが、金谷の体はまるで全身が鋼のように硬く、そして血管の浮き出たその丸太のような腕はがっしりと翔一くんを抱いたまま離さない。

「う、うるさい、こいつ、何や」

「うちの子や、離せ!」

「こ、こいつが子ぉやと? こいつは、でかい、気色の悪い」

 そう言いながら金谷は翔一くんを顔の高さに抱え上げた。

「こ、こいつはミ、ミミズの塊やないけ、気色の悪いミミズが体じゅうから噴き出しとるやないか、お、俺が退治したる」

「あかん、何するんや、やめて! お願い、酷いことやめて。翔ちゃん返して!」

「じゃかましい!」

 そう言うや、金谷は泣き叫ぶ翔一くんをバスタブに投げ込んだ。

 ドボン! バスタブに沈む翔一くん。伊藤さんは慌てて助けに行こうとするが、男の丸太のような腕が彼女を掴んで離さない。バスタブの底でもがく翔一くん。時間にして十数秒、しかしその僅かな時間が確実に翔一の命を削ってゆく。

咄嗟に彼女は、足元にあった頑丈なヒノキの風呂椅子を掴み、闇雲に振りかざした。非力な女性の腕力では重い椅子を片手で掴み上げるだけでも精一杯だったが、偶然にも力任せに振りかざした椅子のその鋭い角が金谷の右目を直撃する。

 ぎゃっと言う悲鳴を上げて顔を押さえながら崩れ落ちる金谷。 

 その隙に横をすり抜け、彼女は湯船に駆け寄る。躊躇なく両腕をお湯に突っ込み、ぐったりしたわが子を抱え上げた。息をしているのかしていないのかわからない。彼女の恐怖は頂点に達した。

 よほど焦っていたのだろう。額から血を流してうずくまる金谷には目もくれず、靴さえも履かずに勢い良く玄関を飛び出した。 

 隣近所に助けを求めることも忘れ、ただ一刻も早くその場を離れたかった。その腕にはしっかりと翔一を抱いたままで。

 幹線を外れたマンション前の道路はこの時間帯、通る車もない。雪混じりの冷たい雨が、街灯に照らされて白く舞っていた。

 誰でもいいから。あの男以外なら誰だっていいから……。彼女は半狂乱になりながら、びしょ濡れでぐったりした翔一くんを抱いたまま、街灯もまばらな夜道を助けを求めて走る。

 素足の痛みすら忘れてひたすら走る。その間にも氷点下まで下がった真冬の冷気に晒されて翔一くんがどんどん冷たくなって行くのがわかった。それは彼女の正気まで凍らせてしまいそうだ。

 その時、こちらに向かう車のヘッドライトが見えた。その光に向かって彼女は一目散に走った。ハイビームの白い光の中に突然飛び出した人間に驚いたドライバーは力任せにブレーキを踏んだ。真夜中、辺りには水の枯れた田んぼしかない。静寂に耳をつんざくタイヤの音が響き渡った。そしてぎりぎりのところで車は止まった。

「あほんだら! 危ないやないか! 死にたいんか!」

「お願いします、お願いします、助けて!」

 運転席から飛び出した男の罵声にも負けずに彼女はその腕にすがり付いて離さなかった。

 最初、運転席から車に向かって突進して来る人を見た時、男はただの酔っ払いだと思ったらしい。

 だがよく見ると、この寒空に靴さえも履かず、目の前に飛び出して来たびしょ濡れの赤子と母親。これは尋常ではないと状況を理解した男はすぐに近くの救急病院へ二人を運んだ。四の五の言う状況ではなかった。

 結局、翔一くんが湯船で溺れてから病院で蘇生術を受けるまで三十分以上も要したが、奇跡的に一命は取り留められた。

 本来ならばそれほど長い時間心肺停止状態が続けば助からないことが多いが、翔一くんは湯船から救い上げられた後、全身びしょ濡れのままで、雪混じりの雨の降る寒い夜、家から病院までの移動に時間を要したことが偶然にも幸いした。

 体温はぎりぎりまで下がり、生命維持活動が抑制され、その結果、翔一くんの体は低体温状態となり奇跡的にその一命は取り留められた。

                                       続く
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