第15話 紫陽花

文字数 2,582文字

第二章   友里(ゆり)



    1



 西田友里。十七才。まだあどけなさを残す円みを帯びたその顔は、色白で目が大きく、幼な子のように可愛いが、取り立てて美人と言うことはない。

 背丈も百五十センチ程度で十七才女子の平均よりもかなり小さく、遠目には中学生ぐらいに見えたことだろう。しかしその胸や尻はとても十七才とは思えないほど成熟している。

 そのアンバランスさは時に異性を惑わせる。そのせいか、通学の電車ではしょっちゅう痴漢に遭い、街では頻繁に声を掛けられた。それもほとんどがかなり年上の男からだ。

 彼女にはまったく意味がわからず、ただ腹立たしいだけだった。つまりその時の友里は、異性に対する自分の価値に気付かないし、また、興味もなかった。その童顔の通りに心はまだまだ幼かった。

 

  一九九〇年 初夏

 その日、友里は一人、阿倍野近鉄百貨店の屋上にいた。平日の昼下がり、こんなところで彼女が学校をサボっているのには訳があった。

 友里の両親、父、西田三郎、母、幸子。二人は友里が生まれるずっと以前から大阪府堺市にある場末の公設市場で小さなテナントを間借りして豆腐屋を営んでいた。その近くには大手のスーパーもあったが、昔ながらの手作り豆腐を買い求める客も多く、店はまあまあ繁盛していたらしい。

 母、幸子には元々膠原病と言う持病があり、長い間入退院を繰り返していたが、それでも具合の良い時には三郎を手伝って店に出ていた。そんな極めて厳しい生活環境も大いに影響していたのだろう。病気がちな幸子は元より、三郎も友里の育児には積極的ではなかった。いや、それどころかほぼネグレクトに近かったらしい。だから友里はいつも親の愛に飢えていた。

 

 三郎、幸子、友里の三人一家族は、店から少し離れたところにある古い木造二階建ての借家で暮らしていた。豆腐屋の朝は極端に早く、まだ真っ暗い内から二人は店の仕込みのために家を出た。だから友里は毎朝、がらんとした家で目覚め、そしてがらんとした家を後にする。物心付いた頃からずっとそうだったので、自分以外、誰もいない家で目覚めることに何の違和感も持っていなかった。

 とても寝苦しい朝だった。起きようとしたが体はまるで鉛のように重かった。下腹部に重しを抱いたような鈍痛がある。ハッと気付いて下着を恐る恐る触ってみると、指先にじっとりとした感触があった。夕べのうちにはその予兆はあったはずだが、まだまだ経験の浅い友里にはうまく対処しきれなかった。

「ああっ!」

 叫びとも嗚咽ともつかぬ声を発しながら、友里はその鉛のように重い体を起こした。幸い布団は無事だった。そのままトイレに駆け込み、履いていたスエットもろとも下着を床に脱ぎ捨てた。

 忌々しげに下を向く。便器の水溜りに赤黒い糸が垂れる。それはゆらゆらと沈み、透明だった水をすぐに茶色く染めた。

 なんて汚い。まるで自分の汚い物を吐き出しているような嫌悪感が彼女を襲う。今から学校へ行き、何食わぬ顔で友人たちに会わなければいけない。これぐらい何てことはない。月に一度、至って日常的なことだと、平気で来る子もいるだろう。けれど友里には耐え難い苦痛だった。一気に気持ちが萎える。

 幸いにも今親はいない。友里がどこへ出かけようと彼らには知る由もなく、また、どこへ行ったとしてもたいして心配もしないだろうと思った。

 友里は新しい下着を身に着け、再びベッドにゴロリと横になった。しばらく何もせず、ただぼんやりと天井のシミを眺めていたが、急に思い立ったように学校に電話を入れた。

「はい。はい。わかりました。すみません、明日には行けると思います」

 幸い出たのは事務の女性だった。動けないほどではないが、かといって学校へは行きたくなかった。しかし無断欠席するほどの勇気はない。これはこれで良い理由だと感じた。

 何をするでもなく、結局またベッドに戻った友里は、再び浅い眠りに落ちて行った。顔を洗い、歯を磨いて、髪を整え、制服に着替え、そして家を出る。この一連の動作を夢の中で三度繰り返した。一度目はそれがはっきり夢を見ているのだと思った。二回目も気付いたらまだベッドにいた。あまりに現実的な夢だったので、三回目にベッドで目覚めた時にはそれが夢であるのか現実であるのかもうわからなくなってしまった。

 下腹部の鈍痛がかろうじて今が現実であると告げていた。窓際のベッドに横たわって見える空はうんざりするほど青い。それは陰鬱とした友里の気持ちにさらに拍車を掛ける。

「ここにおったらあかんわ」

 そう呟くと、あることを思い出した友里は身支度を整え、そして家を出た。実際の自分はまだベッドで横たわっているような妙な離人感がふと頭をよぎったが、もうどうでもいいと思った。

 向かいの家の主婦が花に水を遣っているところに運悪く出くわす。燦々と降り注ぐ太陽の下で、薄青い額をたくさん付けた紫陽花が弱々しく咲いていた。

「友里ちゃん。おはよう。どっか具合でも悪いの?」

 閑な向かいの主婦が心配している風を装う。面倒臭い。

「いえ、別に……」

「そう。えらい遅いから、どっか具合でも悪いんかと思った」

(せやから何なん?)と咄嗟に思ったがおくびにも出さず、目の前の萎れかけた花たちをじっと見る。

「紫陽花……」

「ああ、この子らはほんまによう水飲むやろ。根が浅いからな、ちょっと水あげへんかったらすぐに枯れてしまうねん。もうな、この時期、咲かな損なように咲きやるやろ? こんなええ天気の日には何回も水遣らなあかん」

(嫌なら花なんか全部刈り取ったらいいのに、何を文句言うことがあるんやろ、このクソババァ)友里は単純に思った。

 友里には、自分が主婦の自慢とストレスの捌け口にされていることがわからない。

 愚痴る主婦は困った顔をしながら、持っていたホースで前の道路にまで水を撒き始めた。向かいの家の前の道路は、友里の家の前の道路でもある。

 つまり、(あんたのとこ水も撒かへんからうちが毎日こうして撒いたってるんや)と友里に言いたいのだろうが、友里にはそんな嫌味は通じなかった。それよりも(ちょっと水あげへんかったらすぐに枯れてしまうねん)と、言ったその言葉が、なぜか友里の心に小さな棘のようにチクリと刺さった。

                                    続く
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