第7話 俺は知っているぞ

文字数 2,320文字

    4



 一九九五年  夏

 その年の夏も暑かった。連日の猛暑が続いていた。そんな八月の熱帯夜のこと。エアコンのタイマーが切れて、室内の温度と湿度が一気に上がった。

 僕は先ほどからあまりの寝苦しさに夢とうつつの間を行きつ戻りつしていた。と、その時、僕の耳に微かに声が届いた。

 ――俺は知っているぞ。おまえの心を知っているぞ!

 その震える声は、夢なのか、はたまた幻聴なのかわからない。けれど、横たわる体に酷い胸焼けを起こさせる。その次の瞬間、否応なく僕は現実に引き戻された。

「あんたぁ!」

 僕は驚いて飛び起きた。全身汗びっしょりだ。夜中のトイレから僕を呼ぶ大声と共にそいつはやって来た。

「あかん、破水してしもた! どうしよう」

「どうしようって、病院行くしかないやろ。すぐ車回して来るわ」

「お願いします。それと押入れに出産セット用意してるからそれ出して」

「わかった。痛いか? 大丈夫か?」

「うん、まだそんなに。大丈夫。夜用ナプキンでいけると思う」

 僕はすぐに荷物をまとめ、便座に座り込んだままの静子の背中を支えてゆっくり起こした。その時、ふっと魚のような臭いが鼻を突き、思わず息を止めてしまった。

 その後、僕たち二人は大そう慌てて病院に駆けつけるが、静子を診察した助産師はまったく慌てる様子もなく焦り顔の二人に向かってこう言った。

「ああ、まだまだですよ。ぜんぜんですわ」

「ええ? そうなんですか?」

「破水したらすぐやと思ってはった?」

「…………」

「初産やしね、長丁場になると思うから、ご主人も覚悟しておいてね」

 その助産師はぞんざいな物言いをした。まるで小バカにされたようで少しイラっとしたが、彼女の言葉は決して間違ってはいないだろうし、ここは従うしかない。

 難産だった。助産師の言った通り、破水から分娩まで、四十時間以上もかかった。あまりに進行が遅いために途中から陣痛促進剤を使用することになった。

 それまで波はあったものの、時折、話ができるぐらいの痛みだったが、促進剤を点滴し始めた途端、一変してその様子が変わった。

 静子はいつ終わるとも知れぬ凄まじい苦痛に見舞われて「もう、もう、点滴止めて、お願い!」と大声で叫びながらのた打ち回った。そして腕に刺した点滴の針を無理やり外そうともがいた。

 看護師が慌てて抑え付ける。すでに静子は理性を失いつつあった。僕はその間、手を握るか腰をさするぐらいしかできなかった。その腰をさする手からも静子の苦痛は十分伝わってきた。けれど僕は、髪を振り乱し、涙と鼻水と涎で顔を真っ赤にしながら大声を上げるその顔をとても醜いとさえ思った。  

 ――誰のために? 何のために?

 鼓膜にきんきん響く静子の叫び声も、手に触れる湿った腰の温もりさえも、まるで現実ではない遠い世界のことのように思われた。つまりは現実逃避。ただ苦しむ静子をぼんやり見つめながら、この時間が一刻も早く過ぎ去ってほしい、夢ならば早く覚めて欲しいと願った。惨たらしい叫び声を聞くのはもうたくさんだった。  

 後から入院して来た妊婦たちが、次々と分娩室へ入って行く中、静子だけはずっとその苦痛に耐えなければならなかった。地獄の責め苦とはこういうことを言うのだろう。

「もう、薬止めて! お願い、早く分娩室に!」

 陣痛室の外で出迎えた静子の父は、外まで聞こえる静子の絶叫に、酷く驚いた顔で、「あの声、うちの子かいな?」と呆然と呟いていた。僕はただ頷き、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 不妊治療から始まり、この出産まで、ほかの女性よりも、なぜ静子だけがこんなにも苦しむのか。子を望むことはそれほどまでに対価を要することなのか。僕の安易な発想がここまで静子に苦痛を与えるとは、まったく考えもしなかった。

 二日間苦しみ抜いたあげく、ようやくその子は生まれた。最後は静子も力尽きて吸引分娩になってしまったが、とにかく無事に生まれた。

 分娩室の扉が開き、皆が見守る中、勝ち誇ったような顔の助産師にうやうやしく抱きかかえられながらその子は現れた。僕はただ、その姿をぼんやりと眺めていた。嬉しいとも、幸福だとも、そのような実感は何も湧き起こらなかった。にこにこ笑いながら子を取り囲む家族たちとの温度差を随分と肌で感じていた。

 静子に付き合ってこの二日、まともに休んではいなかったので、彼はただ、やっと終わった、という脱力感に見舞われていた。

 その時、助産師は、「元気な男の子ですよ。お父さん、さあ抱いてあげてください」と、微笑を浮かべながらこちらに向かってその子を差し出した。

(え? 本気か?)と一瞬、ほんの一瞬だが、僕の手は固まったまま出ない。だが、ああこれは儀式なのだ、と気を取り直し、引き攣った笑顔と共に両手を差し出した。助産師は僕をじっと見つめ、その反応をうかがう。僕にはその助産師が明らかに楽しんでいるように思えてならなかった。

 一挙一動を皆が見ていた。僕はその射すような視線の中で自分の子を抱かなければならないことに恐怖と不安を感じた。母や静子の両親たちは皆、心待ちにしていた初孫の誕生を純粋に喜んでいる。僕も顔では同じように満面の笑みを浮かべ喜んで見せてはいたが、しかし、耳をつんざく声で泣く、赤黒いその子の体や髪の毛はべっとりと濡れていて、まるで異形の生き物に見えた。

 と、その時。

 ――俺は知っているぞ。お前の心を知っているぞ!

 どこかでそう囁く声が聞こえたように思えた。僕は慄然とした。できるならこの場からすぐに消えてしまいたかった。だが、静子はまだ分娩台の上にいる。

                                  続く 
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