第28話 吐き気と焦燥感

文字数 2,210文字

 それからひと月ほど過ぎ、裏通りの土だまりからコオロギの声が聞こえ始めた頃、都はリハビリルームにまだ名札を残したまま退院することになった。

 これからは家と病院を小まめに行き来する生活が始まる。付き添いはもちろん友里の役目だった。

 今までの家事、育児に加えて、都の介護、通院、そしていつ襲って来るかもわからないダークの影に脅えながらの生活である。

 希望の見えない真っ暗闇の中を手探りで進むような毎日が友里を待ち受けていた。

 友里の心の糸はもう限界まで張り詰めていた。どう考えても友里がたった一人ですべてをこなすには無理があった。都が発作を起こす度にすべての作業はストップしてそちらに全精力を傾けなければならない。

 それは祐一の行動にも当然影響を及ぼした。祐一は自分の行動を制限されることを最も嫌がった。元来〝我が道を行く〟をそのまま擬人化したような男だったから、自分の時間が取られる度に「こんなことになったのはお前せいだ! お前が何とかしろ」と友里をなじった。

 その上たちの悪いことに――実はこちらの方が友里に及ぼす悪影響は計り知れないが――彼の性欲は人一倍強かった。

 だが小心者の祐一には堂々と浮気をする甲斐性も風俗に行く金もない。その捌け口は友里しかいなかった。夜遅くに酔っ払って帰って来ては、疲れて泥のように眠る友里の上に圧し掛かり、酒臭い息を吐きかけた。

 そのたびに友里の中で、悲しみとも怒りともつかないどうしようもない負の感情が湧き起こる。どこへも持って行き場がない感情だ。

 やがて友里の祐一に対する思いは憎悪を超えて恐怖の域にまで達していた。それは日に日に大きくなるばかりだ。このままでは友里の精神が完全に崩壊してしまう。



    7



 秋になった。

 都の癲癇発作の回数は少しずつ減って来ていた。発作を繰り返す重積状態を起こすこともほとんどなくなった。

 それでもいつ起こるかもしれないと言う不安は依然としてあった。何らかの予兆、たとえば都が急に視界が狭まったと訴えたり、あるいは手足に震えや硬直などが現れたりすると、それはすぐに発作だと気付く。

 しかし何の予兆もなく偶発的に硬直して転倒することもあったので、友里はまだまだ目が離せない。転倒対策として頭部を保護するピンクのかわいいヘッドギアを買って常に被せるようにしていた。

 それは週に一度の都の通院日での出来事だった。

 友里は朝早くから泣きぐずる咲希をなだめすかしてベビーカーに乗せた。そして付かず離れずちょろちょろ動く都に細心の注意を向けながらゆっくりベビーカーを押す。

 狭い路地を抜け、そこから駅まではアーケードのある商店街が続く。その道はつい数ヶ月前、都を載せたストレッチャーといっしょに咲希を抱えて走った道だ。あの時はあっという間だったが、今この状況ではなかなかたどり着かない。

 友里は駅まで来るだけで疲労困憊していた。駅前の歩行者信号はすぐ手前で青の点滅に変わった。先を急ぐ人々が駆け足で友里たちを追い越して行く。

 友里はその後姿を見つめながら立ち止まり、小さく溜息をついた。ふと見上げた空は、彼女の心情とは裏腹に、まるで青い色紙を一面貼り付けたようだ。そして暑い。十月中旬だというのに、陽射しはとても強く、女性は日傘を差し、道行く人皆一様に真夏を思わせる出で立ちだ。

 朝起きた時には寒いぐらいだったので厚手のパーカーを着て来たが、家から駅までベビーカーを押しただけですでに額には汗が滲んでいた。おそらくこれからもっと気温が上がるのだろう。

 その時の友里は訳もなくとても気が重かった。いや、おそらく思い当たる訳はあったはずだ。しかしたくさんありすぎて、具体的にどれが友里の足取りを重くしているのかわからないし、考えたくもなかった。

 再び歩行者信号が青に変わり、盲人用の鳥のさえずり音が交差点に流れた。横断歩道に人の波が起こる。友里もその人々の流れに続こうと一歩足を踏み出した。

 その時突然に、今まで気にならなかった雑踏の音が洪水のようにどっと押し寄せて来た。まるで耳を突き刺すようだ。思わず耳を塞ぎたくなる。吐き気と焦燥感が友里を襲う。

 瞬間、ふと友里の脳裏をよぎるものがあった。出掛けに見た祐一の顔だった。あれはまるで自分を見下しているような冷たい表情だった。もちろん祐一に労いの言葉など求めてはいない。しかしせめて一声ぐらいあっても良さそうなものだ。

 友里は思う。都の通院の間だけでも祐一が咲希を看てくれたらどんなに助かることだろう。壁の大きなカレンダーには通院日に赤丸印が付けてあるので、おそらく祐一は今日が都の通院日だということは知っているはずだ。

 さっきも友里たちがどこへ行くのか知っていて、そして無視したのだ。もし仮に友里が咲希の世話を頼んだとしたら、祐一の機嫌は悪くなる。いや、悪くなるどころではなくきっと逆上するに違いない。

 いやいや、もうそのことは考えまい。祐一には頼らないと決めたのだから。しかしそうわかっていてもいっしょにいるのだからついあてにしてしまう。

 脳裏にちらつく祐一の不機嫌な顔に向けて友里は、(ほんまに、はなからおらん方がマシや……消えてほしいわ)とぽつりと毒づいた。毒づいてからやっと、この重苦しい気持ちの一番の原因であることに気付く。

                                     続く 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み