第91話 ガラス細工のような心

文字数 2,570文字

 友里は外科での治療が終わった後、前の病院とは違う精神科専門の大きな病院へ転院することとなった。

 僕は今までがそうであったように、毎日仕事が終わったら、友里の様子を見るために病院を訪れ、一時間ほどいっしょに過ごすことにしていた。精神科の病院に移って一ヵ月ぐらいの間、彼女の病状は相当悪かったからだ。

 ある日、僕が会いに行くと、友里はいつもいるはずの大部屋にはいなかった。看護師に尋ねたところ、事故があったために閉鎖病棟に移されたと言う。

 ナースステーションで教えられた通り、閉鎖病棟の個室に向かった。僕はそこで驚きの光景を目にする。

 なんと友里はベッドに幅の広い革のベルトできつく拘束されていた。そして頭は包帯でぐるぐるに巻かれ、目隠しまでされ、時折、動物のような大きな唸り声を上げている。

 僕は傍にいた看護師に何があったのか聞いてみたところ、突然、自分から壁に頭を何度もぶつけて血まみれになり、それを止めようとした他の患者や看護師の首を絞めようとして暴れたらしい。なるほど、頭の包帯の理由がわかった。

 しかしこの状態ではあまりにも酷いので、「拘束を緩めてあげてほしい」と頼んだが、看護師は言う。これは院側の止むを得ない措置ではなく、友里自身が「もう自分でも何をするかわからないので、どうかあたしを縛り付けて下さい」と頼んだのだと。

 

 僕はベッドで縛られている友里に近付いた。その動かせない右手をいつものようにそっと握ろうとした。ところが友里はいきなり僕の手の甲に爪を立て、強く引っ掻いた。まるで興奮した猫だ。

 僕は一瞬驚いて手を引っ込めた。見ると、相当な力で引っ掻いたのだろう。僕の手の皮がえぐれてしまっていた。その痛みに耐えて、それでも友里の手を握ろうとすると、友里は泣きながら大声で叫んだ。

「お願い、もう帰って、お願いやから帰って」

 傍にいた看護師が僕に言う。

「患者が興奮するので、今日はもうお引取り下さい」

 僕はただ帰るしかなかった。手の皮がめくれて血が出ていた。 

 看護師が消毒して絆創膏を貼ってくれた。痛かった。でも友里は、友里の心はもっと傷付いているに違いない。このぐらい何でもないと思った。

 僕はただ普通に生きることが、どれほど難しいことか、思い知らされていた。自分たちは普通に生きている。普通に息をし、普通に食べ、普通に眠る。当たり前の世界だ。けれど、今、友里がいる世界はそうではない。ただ生きるだけで精一杯なのだ。

 僕は気付いた。直也の通っていたひかりの家で出会った、たくさんの人たちもそうだ。本当だったら遊び盛りの子供たちなのに、何かしら体に重い障害を抱え、親や他人に自分の意思さえ伝えられずに、もちろん遊んだり何かを楽しんだりもできずに、ただ必死で障害と戦いながら生きていた。そして今ここで、声さえまともに出すことができずにベッドに縛り付けられている友里もその一人だ。

 僕は子供の頃から、苦しむ人を傍で見ることが最も苦手だった。それは逆に言えば、共感力が非常に強かったからに他ならない。だから苦悩を抱えた人を避けて心を閉ざして来たのだろう。なぜその僕が、今、こんなにも他人の苦悩に深く関るのだろう。

 どんなに避けようとしても、向こうの方からどんどん僕の方へ近寄って来るのはなぜだ? もし、この世界に神などと言う者がいるとすれば、僕にいったい何を見せたい? 僕にいったいどうせよと言うのか。まるでどこか遠くで僕の苦悩する姿を見ながら、よしよしと頷いているようではないか。

 

 その日以来友里は、開放病棟から閉鎖病棟の個室に移されることになった。そこは、外から鍵が掛けられ、二十四時間、中の様子をカメラで監視されている。

 また、面会は身内といえども、調子の悪い時には会わせてもらうことすらできない。持って行った着替えや身の回りの物、食品なども全部チェックされて、自殺や自傷の危険性のある物は一切渡すことができない。もちろん面会時間も非常に短時間に限られていた。

 それから一ケ月。友里にできることは、食べて寝て排泄して。たったこれだけの、とても社会生活とは言い難い悪夢のような期間だった。それが過ぎ、ようやく急性期の山は乗り越えたのだろう。病状は一応の落ち着きを取り戻し、閉鎖病棟から開放病棟へ戻ることが許された。

 幸いなことに友里はその後も順調な回復を見せて、病院の入院期限である三ヶ月を延長することもなく退院する運びとなった。

 

 子供たちが祐一の下へと去り、半年が過ぎようとしていた。

 明けて一月。友里の体調も徐々にではあるが、平常を取り戻しつつある。友里はメイクスクールだけは卒業できたので、そちら方面での正規雇用の口を探していた。

 しかし、パートや派遣ならあるが、正規雇用となると世間はそんなに甘くない。彼女の体調が心配だったので、最初は休み休みできるようなパートの方が良いのではないか、と僕は友里に勧めたが、友里はどうしても正社員になりたいと言った。

 前にも書いたけれど、友里の病気は調子の良い時と悪い時の波が極端だ。ONかOFFのどちらかしかない。そして、ONの時にはOFFになったときのことをまったく想定しない。確かに、好調な時はすごいパワーを発揮するため、仕事の成果は尋常ではない。しかし、余裕という物がまったくない。たとえばそれは、十ミリの隙間に十ミリの物を叩き込むようなものだ。

 何事も、長く安定して続けたければ、ある程度ゆとりを持つことが必要だ。それは決して手を抜くことではない。僕は何度も友里にそう進言するが、彼女は「それは、わかるけど」と言うだけで受け入れることはなかった。

 それは危うさを秘めている。いずれまた、彼女は倒れる。僕にはわかっていた。それは精巧なガラス細工のように、あるいは美しい砂糖菓子のように、あまりにも繊細で脆くて壊れやすい。粉々に砕け散った後のガラスを拾い集めるのは僕の役目なのだろう。溶けて崩れた砂糖菓子を修復するのも、やはり僕の役目なのだろう。もう、何があってもとことん最後まで付き合うしかない。僕はそう思った。

 そんなガラス細工のような心を持つ友里が、ようやくある一件の勤め先を見つけて来た。

                                     続く
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