第93話 そんなことじゃない

文字数 2,878文字

 次の日曜の昼、僕はその男と会って話をすることになった。 

 男は佐伯と名乗った。佐伯は、某医療器具メーカーに勤めるごくごく〝普通〟のサラリーマンだった。

 僕の予想とは違って、佐伯は友里の勤めている女装サロンにやって来た女装趣味を持つ客ではなかった。医療器具メーカーに勤める傍ら、性同一性障害を持つ客の、性転換をサポートする仕事をしていた。

 良くも悪くも普通の常識人であった。だが友里には常識など一切通用しない。

 その常識人の佐伯が、友里のことをどこまで理解できているか、いささか不安だったので僕は佐伯に友里の病気の話を一時間も掛けて説明した。友里の今後が掛かっていると思ったからである。

 佐伯は、仕事柄なのか「薬に依存してはいけない」だとか「薬に変わる良いサプリがある」だとか、確かにそう言った知識は豊富だった。

 ――いや、そんなことじゃない。そんなことじゃないんだ!

 僕は心の中で何度もその言葉を繰り返した。そして佐伯は最後に「僕が友里さんの病気を絶対治してみせる」と、自信ありげに言う。なぜかその言葉が、どこか遠い世界の話のように聞こえてならなかった。

 僕はひと通りの話を終えて、佐伯がもし、友里のことを本気で考えてくれて、この先もずっと友里の病気とも、また友里の別れた子供たちとのこともちゃんと考えて付き合って行くことができるならば、僕は友里から全面的に手を引いて佐伯にすべてを任せたいと言った。

 その気持ちに嘘は無い。なぜなら、僕が望むことはただ一つのみ。友里の幸せな笑顔、それだけだったのだから。それが僕ではない別の誰かが代わりにちゃんと与えることができるならば、それはそれで良い。そういう運命であり、僕の役目はここで終わりだと思った。

 佐伯は絶対にちゃんとやれますと言ったので、僕はもし何か困ったことや助けが必要なときは連絡して来るように、とだけ伝えて話し合いは終わった。

 それから何日かして、友里はうちに帰らなくなった。

 やはり僕の心に戸惑いは残ったが、友里が幸せならばそれも良い。友里を思い、友里の幸せを祈るだけの、直也と二人きりの生活に戻った。大切なことは、友里が僕のことをどう思っているかではなく、僕が友里を大切に思う気持ちである。僕はそう思うことにした。 

 友里の居た部屋には、まだ友里の服や、化粧品や、書籍類や、その他いろいろな物がたくさん置かれたままになっていた。それらはすべてが友里の抜け殻であり、僕はそれらを見る度に、とても胸が苦しかったけれど、今はもうしばらく何もしたくなかった。ひどく疲れていた。

 そして、友里がいなくなって、一ヵ月、二ヵ月と月日が流れて行き、その疲れはやがて底なしの淋しさへと変わって行った。

 僕は考える。自分の役目はもう終わったはずなのに、なぜこんなにも淋しいのだろうか? こういうことを世間では失恋と言うのだろうか、いや、ちょっと違う気がする。僕は友里に恋をしていたのか? いや、恋などと軽く一言で言い表せるようなものではなかったのでこれも疑問だ。ではいったい何だったのだ?

 二年近くも毎日朝五時半に起きて、子供たちを学校まで送り、懸命に世話をし、友里の体調が悪いときは、どこでもすぐに飛んで行き、また入院中は毎日の面会を欠かすことなく通い詰めた。あれは、夢かまぼろしか? 

 ああ、人間らしい感情を持つことは、こんなにも苦しいことなのかと驚愕する。どうか、ただ、彼女が幸せになれますようにと、祈るほかはなかった。

 

 友里が僕の家を出て半年が過ぎ、季節は秋になった。

 僕は直也と二人きりの生活が続いていた。とはいえシングルファーザーである僕は、直也の世話と仕事に追われる忙しい毎日を送っている。けれども、何をしている時でもふと手を止めた時に友里の顔がフラッシュバックする。今ごろどうしているのか、元気にやっているのか、心は安定しているのか、僕はそんなことばかり、延々と煩悶を繰り返した。街でたまにラッシュの香りを嗅ぐと、思わず振り向いてしまう。

 そして忘れかけた頃に、友里から連絡が来る。僕は解放してもらえない。それはメールであったり、時に電話であったりする。その内容は、恋愛ではなく簡単に言うなら悩みの相談である。それも大した悩みではなく、些細なことが多い。知るや知らずや前を向こうとしている僕の出鼻はあっさり挫かれてしまう。

 まあ確かに恋愛は終わったのかもしれないが、もう二度と会わないと約束をしたわけではなく、佐伯と友里だけでは解決しない問題が起こった時には、相談に乗るから連絡しなさいと伝えたこともある。

 世間の誰もが僕にこう言う。「まるで蛇の生殺しだな。何をだらだらやっているのだ、もうきれいさっぱりあきらめてさっさと次へ進みなさい」と。

 でも、情けないことに僕には、さようなら、もう会うこともないでしょう、お元気で、などと言えるはずはなかった。悲しいくらいまだ友里を愛している。

 けれど今のままではいけない。それは僕もよくわかっていた。 

 散々悩んだあげく、まず、身の回りから少しずつ始めることにしようと思った。今や友里の置いて行った荷物は僕の家の一部屋を完全に占拠してしまっている。まずこれを整理することから始めようと思った。

 と言っても、そう簡単にことは運ばない。かつて友里の元夫である祐一が、友里の残して行った荷物を一切合切、きれいさっぱり捨ててしまって、友里は尋常ではないショックをうけたことがあった。

 つまり友里の所有物を勝手に処分したり、あるいは物だけでなく、友里の親しい周りの人たちが、予告もなく彼女の前から急に消えたりすることは、友里の心に深いダメージを与えてしまうのだ。それは人や物に執拗に心を囚われてしまう友里の病的な性格から来ている。だが悔しいことに、今ならあの憎むべき祐一が業を煮やして友里の荷物を勝手に処分した気持ちも多少なりともわかる気がしていた。

 そこで僕はメールで友里に尋ねることにした。

「悪いけど、部屋狭いから、友里ちゃんの荷物、ちょっと片付けようと思うんやけど」と。

 返事はすぐに返って来た。

「ごめんやけど、もうちょっとだけ置かしといて」

「うん、ええよ」

 即答である。なんと情けないと思う。でもどうにもならない。もし捨てようものならまた友里の逆鱗に触れてとんでもないことになりそうで怖かった。

 取り敢えず、衣服はクリーニングに出し、衣装箱に収納し、その他の小物類は袋に詰め、三つの本棚に満載の書籍は、きれいに箱に入れて、それらすべてを物置に片付けた。その作業だけでまる一日かかったが、おかげで、部屋は非常にすっきりした。

 おそらく「あれどこやった?」と聞かれて、片づけたと答えただけで友里は「すぐに出して」と顔を真っ赤にして怒るのだろうが、たぶん友里のことだから本当に必要な物は少しだけで、後は何を置いてあったのかも覚えていないはずだ。だから、これでよかったのだ。たぶん。 

                                      続く
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