第3話 レディースクリニック

文字数 1,840文字

 初診日は静子一人での受診でも構わなかった。けれども、ラジオで歯の浮くようなセリフを公言してしまった以上、僕も同伴しないわけにはいかなかった。

「俺もいっしょに行くわ」

 僕はどれほどこの言葉を発することを躊躇ったかわからない。

「ほんま? ほんまにいっしょに行ってくれるのん?」

 静子の少し頬を赤らめた嬉しそうな笑顔。もう引き下がれない。

 診察当日。四月のある月曜の朝のこと。

 空は青く澄み渡り、花冷えの凛とした空気の中、二人は連れ立ってマンションを後にした。病院までは徒歩で十五分程度だった。途中、ソメイヨシノが満開に咲き誇る公園の横を二人は気まずい思いを一生懸命にひた隠しながら歩いた。

「きれいやなあ」

 静子がぽつりと呟く。

「あ、ああ」

 静子にとっては、満開に咲き誇る桜は、まるで二人のこれからを祝福するように映ったのかもしれない。だが静子が見ていない時の僕は無表情だった。クリニックまであと少し。それ以上何も喋らず、僕たち二人は黙々と歩いた。

「ごめんやで、ほんまに。つき合わしてしもて。すぐ終わると思うから……」

「いや、かまへん。あやまらんでもええよ。仕事より大事なことやから」

 静子は、僕に仕事を遅刻させることよりも産婦人科に連れて行くことに後ろめたさを感じていたらしい。

 そして僕は嫌な顔一つ見せずに、静子といっしょにレディースクリニックのドアを叩いた。週明け、月曜日の朝のこと。混み合った待合室。男性は僕一人きりだった。不意の異性の登場に、待合は微妙な緊張感で包まれた。

 僕は目だけで部屋の様子を追った。全体的に淡いピンク色を基調にした、とてもフェミニンな室内だった。

 ――ふぅ……。それは忌避感か、侮蔑か、小さな溜息が僕の口を突く。とりあえずピンク色にしておけばいい。安易な固定観念で塗り固められた壁や天井だ。そんな風にしか考えられない僕の思考はもはや被害妄想にも近かった。

 しかし静子は部屋の模様など何も気にもしていない様子で、そそくさとスリッパに履き替えて入口で立ち止まる僕の横をすり抜け、一人受付へと向かった。慌てて僕もその後に続く。

「すみません、予約しておりました天宮ですが」

「おはようございます。あ、今日はご主人様も一緒に受診されますか?」

 受付の白衣の女性は、僕の方を一瞬だけちらりと見遣り、言う。にこやかな、大変にこやかな作り笑顔。毎日鏡の前で練習しているのではないか? と僕は思った。

「いいえ、今日はわたしだけで、付き添いで」

「そうですか。わかりました。ではこちらに書き込みお願いします。保険証はお持ちですか?」

「はい、あ、あの、基礎体温表は?」

「あ、問診表と一緒にお出し下さい。保険証だけ先にお預かりしますね」

 実にてきぱきとした受け答え。マニュアル通りなのだろう。

 それから問診表を二人で書き込んだ。その間も僕は女たちの視線を肌で感じていた。じっと見られたわけではない。僕も見たわけではない。だが、そのチラチラと見ている女性たちの興味本位の視線が僕には「あんたたち、ここへ一体何をしに来たの?」と自分たちを詮索しているような気がしてならなかった。

 予約していたにもかかわらず一時間近くも待たなければいけなかった。よく効いた暖房が暑いぐらいの部屋だった。時折、静子は壁の時計を見て「時間大丈夫? ごめんな」と気遣う。  

 その度に僕はただ、「ああ。問題ない」と答え、じっとカウンターの上に設置されたテレビをぼんやりと見ていた。いや、正確には見ている振りをしていただけかもしれない。

「天宮さん。天宮静子さん、第一診察室へお入りください」

 漸く名前が呼ばれ、静子は席を立ち、ちらりと僕の方を見て少し悲しそうに微笑を投げ掛け、そしてそのまま奥の通路へと消えた。僕はぼんやりした表情のまま静子の後姿を見送った。

 静子と二人で座っている時はまだましだった。彼女が名前を呼ばれて診察を受けている間、僕はたった一人、この拷問部屋で待たなければならなかった。居心地の悪さは最高だ。 

僕たちの後からクリニックを訪れた女たちは皆、女性患者たちの中に混じって一人座る男性の僕に怪訝な眼差しをちらりと向けた。

 いや、怪訝な眼差しではなかったかもしれないが、少なくとも僕にはそう思えた。しかし女たちの僕への興味はすぐに薄れ、カウンターの上に置かれたテレビが垂れ流す芸能人のスキャンダルへと向けられる。

                                     続く
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