第53話 狂気の世界の産物

文字数 2,484文字

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 ここから暫くの間、友里の話を元に、伊藤さん、つまり伊藤京香の事跡を辿ってみたいと思う。

 

 亡くなった翔一くんには父親がいない。彼女は翔一くんを身篭った時、その父親である不倫相手と速やかに別れ、それまで勤めていた北新地のクラブも辞めた。もちろんその相手に翔一くんの認知を要求しなかったので、戸籍上、翔一くんに父はいないことになっていた。

 彼女はたった一人で病院に行き、非嫡出子として翔一くんを産んだ。その後も、誰の手を借りることもなく、一人で育てる決意をしていた。ここまでは前述の話し通りのこと。問題はここからだった。

 それまで十年近く北新地の店に出ていた伊藤さんには、ある程度のまとまった額の預貯金があった。しかし入院出産にかかる費用や、翔一くんを迎え入れるための新居への引越し、その他育児にかかる費用などを出せば、彼女の蓄えはあっという間に底をついてしまった。

 伊藤さんは蓄えが底を尽き掛けると、一才にも満たない翔一くんを保育園に預けて、再び夜の仕事に戻った。それは以前勤めていた北新地のクラブではなく、新地は新地でも近鉄今里駅からすぐのところにある今里新地と言う場末の歓楽街だった。

 今里新地は、昭和初期には花街、そして戦後すぐには、大阪では飛田や松島と並ぶ有数の赤線地帯であったらしい。今でもメインとなる一方通行の狭い道路の両側には数十軒のお茶屋が軒を連ねて立ち並び、筆文字で書かれた袖看板にその名残を留めている。しかし、売春防止法が施行されて以降、実際に夜の営業を裏で行っている店もあるにはあるらしいが、全盛期の賑わいはすっかり成りを潜めてしまった。

 彼女が働いていたのはもちろんそう言った類の店ではなく、飲み屋街の一角にある雑居ビルの中の小さなラウンジだった。

 その場所は、保育園から近いことも選択理由の一つであったが、翔一くんとの生活を一番と考える彼女は、たとえ収入が減っても、スケジュールやノルマに縛られる北の高級クラブより、気取らないラウンジをあえて選んだ。

 とは言え、乳飲み子一人育てるぐらいの生活ならば、何も水商売になど戻らなくても、国から児童扶養手当をもらうことができたはずだし、衣食住に贅沢を言わなければ、他のシングルマザーと同じで生活ぐらいは何とかなったのだろうと思うが、伊藤さんはその派手で勝気な性格もあり、自分も子供も含めて凡俗な庶民的生活に甘んじるタイプではなかった。

 服は古着や量販店のものは決して着ないし、車は小さいながらも欧州車に乗っていた。つまり身の回りの物すべてが名のある物でなければ気が済まなかった。それを実現することが彼女にとっての理想であり、頭の中に思い描いていた子供と二人きりの生活だったのだろう。

 また別の見方をすれば、翔一くんを私生児として産んだことに対する罪悪感をその派手な振舞いで埋めようとしていたのではないだろうか。

 今となっては当時の彼女の苦悩を図り知ることはできない。ただ、その頃の彼女は、他人から随分と陰口を叩かれていたらしい。まさかその勝気な伊藤さんの気質が破滅へと向かうことになるとは思ってもいなかったのだろう。

 さて伊藤さんが夜の仕事に戻っておおよそ三ヶ月が経った頃のこと。北新地から今里に移ったわけだが、場所柄が変われば客層もそれなりに変わる。

 伊藤さんはそこの常連だった金谷と言う男と親しく付き合うようになった。金谷は関西に拠点を持つ今で言うところの反社会組織、広域指定暴力団の下部組織の構成員だった。

 そう言えばまだ聞こえはいいが、代紋をちらつかせてユスリタカリを繰り返すどうにもならないただのゴロツキだったようだ。

 なぜそんなつまらない男に彼女は惹かれたのか。亡くなった人を悪く言うわけではないが、大分の田舎にいた頃、伊藤さんはかなりの不良少女で通っていたらしい。いわゆるヤンキー娘だった。その男勝りな性格も相まって、そこら辺に掃いて捨てるほどいるエセフェミニストとはまったく反りが合わなかった。

 と言うか彼女にはまずどんな時も彼女の顔色を窺い、彼女の気持ちを優先させるやさしさがどうにも我慢できなかったらしい。

 つまり力で相手をねじ伏せるぐらい気勢のある男に惹かれた。粗野で中身はない。けれど一見、金と勢いはある。その相手とは、どうしようもないヒモ男や、DV男、社会からドロップアウトしたアウトローたちだった。正に金谷はその条件すべてを満たしていたのだろう。

 その頃の伊藤さんの体中には青痣が絶えなかったと言う。殴られても足蹴にされてもそれでも尚、彼女は気丈に耐えていた。あれほど勝気な伊藤が一度嵌ってしまえばこうも従順になるものかと言うぐらいに。

 ある冬の日のこと。その日は、朝から降り続いた冷たい雨が、夜半にはみぞれに変わった。伊藤さんは店を終えて、日付が変わる頃、翔一くんを抱きかかえて部屋に戻った。

 鍵が開いていた。玄関には一目で金谷の物だとわかる黒い革靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。

 嫌な予感がした。

 灯りの点ったリビング。店でしこたま飲まされた彼女にもわかるぐらいビールの臭いが辺りに漂い、しかし金谷はいない。部屋の中央に置かれたコタツの上には酎ハイとビールの空き缶が数個、その内一つは横倒しになり、そこからこぼれた薄黄色の液体がコタツの天板に大きなビールの海を作っていた。そしてその海の中に目を疑う物が転がっていた。

 ――注射器だった。

 伊藤さんは金谷が常習者であることは知っていた。そして今までも「決めてアレするととんでもなく気持ちがええから」と何度も勧められていた。

 しかし彼女は頑なに断ってきた。明らかに非合法、犯罪だ。にもかかわらず、そういう世界がすぐ身近にあり、極めて非日常的なことなのにいつの間にか彼女自身も当たり前のことのように麻痺していた。

 だが、今、目の前にあるそれは、彼女を震え上がらせ、それが決して尋常ではなく狂気の世界の産物であると思い出させるには十分だった。

                                   続く
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