第38話 ヒステリックなナイフ

文字数 2,883文字

 古びた公民館のような建物の玄関を入ると、乳臭さともアンモニア臭ともつかぬ空気が僕の鼻腔を刺激した。

 奥の方からは動物の鳴き声を思わせる子供たちの大声が聞こえていた。入ってすぐ左に靴箱が並び、雨模様のせいか、黄色やブルーのかわいい長靴が横倒しにぎゅうぎゅうと押し込まれていた。右側にはガラス小窓があり、中では女性が机に向かって何か書き物をしている。事務室らしい。

 僕は小窓をコンコンとノックした。三十代ぐらいの上下ジャージを着た女性が僕の方を見てガラス窓を開けた。

 事務員だろうか。それにしてはラフなスタイルだ。えび茶色のジャージの上着には左胸のところに近藤と刺繍が施されていた。

「あの、すいません」

「はい。何か」

「あの、天宮直也の家の者なのですが」

 その近藤と言う女性は最初、怪訝そうに僕を見ていたが、僕が直也の父だと知ると、急に驚いたように立ち上がり、先程のいぶかしげな表情から、とても珍しいものを見た、と言う驚きの表情に変わった。

 二年もの間、おそらく僕のことは噂にはしょっちゅう上ってはいただろうが、実際に会うのは初めてなのだから不審者扱いされても仕方のないことだと納得する。

「ああ、直也のお迎えですね。しずちゃん、あ、奥さんから聞いてます。」

「あ、いつもお世話に……」

 僕が言い終わらない内に彼女は「お待ちください」と言い残してすぐ横のドアから玄関に現れ、にっこりと微笑みながら小走りで奥へと消えた。

 すぐに奥の方で「なおやぁ、直也どこぉ? お父さん来たでぇ」と大きな声が聞こえた。

 彼女は本当に職員なのか? 僕は公的機関である施設の人間が、他人の子供や妻に対し馴れ馴れしく呼ぶことに多少の違和感を覚えていた。

 いや、施設の人間だけではなく、ここの関係者や保護者たちみんながそうだ。以前、遊びに来た静子のママ友達たちも、家に着いていきなり「直也」と呼び捨てで呼んでいたことを思い出した。

 僕は後から静子にそのことを聞いたところ、「わたしも最初は少し抵抗があったけど、もう慣れた。最初からここじゃあそうなんやからそうやん。わたしもよその子、呼び捨てで呼んでるよ」と静子は笑いながら答えた。

 それがここの方針。つまり事務方を含めた職員、保育士、父兄、もちろん子供たちも、杓子定規な壁はまったくない。それはまるで一つの大きな家族のようなものなのだろう。

 その一方で結束の輪を乱し、自分たちを傷つけようとする者には容赦ないに違いない。

 それこそが僕の持つ恐怖感の正体なのではないだろうか。  

 ――怒らせたら怖い人たち。それは深く関わりたくないと言う警戒心が僕にそう思わせるのかもしれない。

 僕にはそのニコニコ顔の裏側にヒステリックなナイフが隠れているような気がしてならなかった。



 壁の時計は午後四時半を指していた。僕がこうして直也を待っている間にも玄関には続々と母親や祖父母たちが子供を迎えにやって来た。よほど事情でもない限り、皆大体同じぐらいの時間に連れて帰るのだろう。

 しかし誰一人として見知った顔はなかった。二年も子供を通わせているのに、会う人は知らない人ばかりだ。

「こんにちは」と皆笑顔で挨拶はするがあくまで社交辞令の範囲を出ない。当然僕も自分から名乗ることもなく、ただ玄関先で突っ立って直也を待っていた。

 他の保護者たちは、靴を脱いでお構いなしにどんどん奥へと消えて行った。まるで我が家であるかのように。

(なあ、あの玄関にいてる男の人、誰?)

(ああ、直也のお父さんや)

(へえ、あの人が直也のお父さん!)

 などと奥でひそひそと囁くのが聞こえて来そうだ。僕は胃がきりきり痛む。なんて居心地が悪い。すぐに帰りたかった。だが直也は出て来ない。壁の時計と近藤が入って行った薄暗い廊下を交互に見つめる。

「すみません、お父さん、お待たせしました」

 と、その時いきなり右から近藤の声がした。さっき彼女が入って行った入り口ばかりを見ていたので、あわてて声のする方を見る。そこには直也をしっかりと抱きかかえた彼女が立っていた。 

 笑いながら肩で息をしている。よほど追い掛け回したに違いない。直也はまるで捕まった小動物のようにジタバタと暴れていた。

「こらっ直也、じっとしとり、お待たせしました。ああ、やっと捕まえました。ほんまにこの子は!」

 ところが、直也は、僕の姿を見ると、ほんの僅かの隙を突いて彼女の腕を振り払ってあっという間に再び奥へと逃げ込んでしまった。

「あっ、しまった、こらぁ直也!」

「ああああああああーっ」

 奥から激しくドタバタと走る音と直也の奇声が響いて来た。

「なおやぁ! こらぁ、ええかげんにしときや!」

 彼女は再びすごい勢いで追いかけて行った。まるで鬼ごっこだ。僕はいよいよ申し訳なくなった。もう玄関口でぼんやり立って見ているわけには行かない。意を決して靴を脱いだ。

 中に足を踏み入れると、途端に幼い子供たちの生活臭が鼻を突く。きっとこの臭いには、いつまでたっても慣れることはないだろうと思った。

 玄関から見ただけではわからなかったが、初めて見るひかりの家の館内は大変おもしろい構造になっていた。正方形に近い大きなホールが中央にあり、そのホールをぐるりと回廊が取り囲む。 

 つまり上から見るとロの字のようになっている。右回りでも左回りでも玄関に出ることができる。先ほど近藤が入った所と違う所から出て来たのはこのためだった。

 ここはかつて、地域の催し物や会議などに貸し出されていた講堂で、その建物を取り壊さずに、うまく保育施設として活用していると聞いたことがあった。

 蛍光灯のわびしい光の中、スリッパを履いていないことに少し嫌悪感を覚えながら、僕は足早に廊下を進む。

 回廊の中ほどのところに開け放たれた観音開きの扉があり、中のホールの様子がよく見えた。

 薄暗い廊下とは対照的に、明るい照明に照らし出されたホールの床はワックスの行き届いたフローリング張りで、じゃまな柱は一本もなく、その広さは回廊の一辺の長さから計算すれば、ざっと二百平米ぐらいか。

 たぶんここで子供たちを遊ばせたり、あるいは集会やいろいろなイベントも催されたりするのだろう。中で職員らしい若い女の人が一人、小さな子供ほどもある巨大なブロックを片付けていた。今日は雨だったので子供たちをここで遊ばせていたのだろう。

 そして廊下を挟んでホールと反対側には保育室や、トイレ、手洗い場、スタッフルームなどが並んでいた。しかしそのどこを見ても老朽化は否めない。

 僕はミニチュアのような小便器の並ぶトイレを横目に見ながら、直也を探してどんどん奥へと進んで行った。すると向こうの角から直也がひょっこり顔を出した。急いでそこまで行くと直也は通路の真ん中に立ち止まって僕を見ている。

 と、次の瞬間、すぐ左横の部屋に直也の姿は消えた。まるでここまでおいでと僕を誘っているようだ。

『なかよしルーム』入り口にはそう書かれたプレートが貼られていた。

                                 続く
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