第48話 そうか。それが母親か。そうか……

文字数 2,261文字

「家行くのん? 今は誰もいてないんとちゃう?」

 何となく団地に入ろうとする僕に友里が声を掛けた。

 直也が僕の後をついて来ようとするが、僕は気にせずに、薄暗い入り口から一歩中に入った。すぐ右側の壁に小さめのポストが上下二段、四つずつ計八つ設置されていて、見ると、名前のないものもあったが、302のポストに消えかかった字で伊藤と書かれていた。間違いなさそうだ。

 そして右側の登り階段を横目で見ながら狭い通路を進むとすぐに突き当たりでその前が少し広めのポーチになっていて左右向かい合わせに錆の浮いた象牙色の鉄扉がある。

 壁の表札プレートにはやはり消えかかった文字で名前が書かれていた。当然のことながら、ここにも人間がひっそりと暮らしている。まるでここは暗い海の底みたいだ。あたりに漂う生活臭は、さらに濃く強く僕の鼻を刺激した。息をすることにさえ、ためらいを覚えるほどだ。

 直也がそっと寄り添い、僕の右手を求めていた。その顔も不安げだ。

 回れ右をする。左側は上へと続く狭い階段、右は今入って来た出入り口だ。碧い夕闇の中に無表情でこちらを見る友里たちの姿が見えた。

 僕は左の上り階段を見上げるが、やはりやめておこうと思った。手を繋いだ直也の方を見ると、不安そうな表情だ。僕はなぜここへ入って来たのか。家が見たかったからか。いやそうではない。ただここで懸命に生きている伊藤さんの気持ちに寄り添ってみたかったのだろう。

 外に出て振り返り、もう一度団地を見上げる。長かった昼間が終わりを告げるように踊り場の蛍光灯がぼやけた光を落とし始めていた。

 伊藤さんはあの華奢な体で、ぐったりとした翔一くんを抱きかかえながら一生懸命にこの階段を昇り降りしていたのだろう。来る日も来る日もいつ終わるともわからない不安の中で、それでも歯を食いしばって階段を昇り降りするその姿を僕は見たことはないけれど、まるで映像でも見ているようにはっきりと脳裏に浮かんだ。伊藤さんは翔一くんにやさしく声を掛けながら、でもその目は決して笑ってはいない。

「ここで暮らしてたんやな」

 僕は団地を見上げたまま言う。

「うん。翔一くんが生まれて今年で七年目や」

「七年も、しんどかったやろな」

「しんどかったやろね……けど」

「けど?」

「しんどいだけやないよ。楽しかったことも嬉しかったこともいっぱいあったと思うよ。それが母親やで」

「そうか。それが母親か。そうか……」

 僕は伊藤さんの過去にあえて触れようとはしなかった。でも、そこにあった彼女の悲しみも苦しみも、そして喜びも、その一部始終、残らずすべてをこの古びた団地は見守って来たのだろうと思った。

 翔一くんのお通夜と葬式は、府営住宅の一角にある小さな集会所で行われた。

 集会所の周りにはすでに喪服に身を包んだ弔問客が何人も集まっていた。けっこう知り合いが多いのかと思ったけれど、友里に聞くと、そのほとんどが福祉NPO法人や、障害者関係の団体職員などで、本当に親しい人はほとんどいないらしかった。

 しかし友里が目を伏せて会釈を交わす中には、僕の見知った顔も数人いた。ひかりの家関連の人たちだ。友里と僕が同伴している姿は、彼らの目にはどのように映ったのだろう。

 僕は一瞬、躊躇したが、あえて挨拶はしなかった。偶然を装いたかった。

 僕たちはもう何も言わず、記帳台の前に並んだ。やがて通夜が始まり、スピーカーから僧侶の読経が流れ出した。最初の読経が終わり、参列者の焼香が始まった時、その列から集会所の中を覗くと、喪服に身を包んだ伊藤さんの姿が見えた。

 彼女は祭壇の前でこちらを向いて畏かしこまり、目を伏せて弔問客の焼香に対して機械的に頭を下げていた。以前僕の家にやって来た時に見せた、あの妙な艶やかさは微塵も感じられなかった。その姿はとても小さく、それはまるで何かに脅えているかのようだ。

 よく見ると伊藤さんは泣いていた。深い悲しみが、幾重にも彼女を包み込んでいるように見えた。

「あ、あの写真や」

 友里が呟いた。祭壇には翔一くんの遺影が飾られている。その鼻にはチューブが入れられたままで、でも百点満点の微笑みであった。

 あの夜「送ったら誰からも返事返って来なかった」と笑い飛ばしていた写真なのか。これこそが、誰でもない、伊藤さんが、親戚や友人一同に堂々と自慢する翔一くんなのだと思った。

 僕の順番が来て、焼香の後、伝えるのは今しかないと思った僕は、目を伏せてうな垂れる伊藤さんに声を掛けた。まずお悔やみを述べ、そして、静子からの言葉を伝えた。退院したら必ず来るからと。

 小さく「ありがとうございます」と言ったその顔は、懸命に明るく振舞おうとしている。僕は心の中で、彼女のこれからの幸せを祈らずにはいられなかった。

 翌日曜。僕たちは告別式にも出席した。連日参列するほどの親しい関係ではなかったが、友里がどうしても出たいと言ったので仕事が休みということもあり、いっしょに付き合うことになった。でも本当は、友里といっしょに居たかった。

 告別式が終わり、友里たちを駅まで送った後、静子の下へと向かった。産院に着くと、上着と黒のネクタイは車に置き、そして粗供養の袋に入っていた粗塩で簡単に身を清めて中に入った。

 産院はやはり美しく生気に溢れていた。今の僕には、廊下も天井も壁も、何もかもがきらきら輝いているように見えた。まるで穢れた僕の体と汚れた僕の心を拒絶しているように思える。
                                  続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み