第52話 長い夜が始まった

文字数 2,644文字

 リビングに戻って、後片付けの続きをしながら、付けっ放しのテレビをぼんやり眺めていた。つい先日、小学校で起きた連続児童殺傷事件についてコメンテーターが強い口調で何かを語っていたが、頭には入って来ない。

 ふと僕は我に返り、静子の寝室に戻って、枕からカバーを外した。それはまだほんのり湿り気を帯びている。すぐに洗面所の洗濯籠に放り込んだ。隣のバスルームからシャワーの音が聞こえる。

 暫くして、見慣れた静子のスウェットを着た友里がバスルームから戻って来た。

 友里はその濡れた髪をバスタオルで包み、その表情はずいぶんさっぱりしたように見える。近寄ると彼女の髪から嗅ぎ慣れた静子の匂いがした。

「ありがとう。もう大丈夫」

「そう、よかった」

「ごめん、ちょっと駅前のコンビニ行って来ます」

「え、こんな時間から? 何買いに行くの?」

「えっと、秘密……」

「秘密?」

「うそうそ、下着や。さすがに借りられへんやろ?」

「ああ」

「すぐ帰って来ます。何かほしいものある?」

「ああ、僕も」

「えっ? 何?」

「あ、いや、いい。何もいらないよ」

 僕はいっしょに、と言いかけたが、こんな夜更けに二人で部屋から出て歩いているところを、マンションの住人にでも見られたらたまったものではない。正しい判断だ。

「遅いから気をつけてな」

「うん。ありがとぅ」

 そう言いながら、友里は出て行った。

 部屋にはリンスの残り香がふんわりと漂っていた。それはよく知っている匂いだ。今この時間に、病室で眠りもせずにうす暗い天井をじっと見つめている静子の顔がふと脳裏をよぎった。



 友里はなかなか戻らない。コンビにまでは五分も掛からないはずだ。その時僕はふと思った。もしかしたらもう友里は戻らないのではないか? と。

 だが二人の娘たちがここにいる。そんなことあるわけもないのになぜか一抹の不安に駆られていた。やはりいっしょについて行けばよかったか。

 時刻は午前零時を少し回った頃、インターホンが鳴った。

「遅くなってごめん、村井です」

「あ、はい」

 僕は慌ててマンションのオートロック解錠ボタンを押す。少ししてコンビニ袋を片手に提げた友里が玄関に姿を現した。友里が出て行ってから時間にして十五分も経っていないのに随分と長く感じられた。

「ただいまぁ。雨降って来たよ」

「ああ、明日はまた雨かな」

「なあ、もう寝る?」

「いや、なんで?」

「ちょっとお話せえへん?」

「ええよ」

 再び寝室に戻った僕たちはベッドに並んで腰掛けて、正面のアルミサッシから見える暗い外を眺めていた。友里の右腕が僕の左腕にそっと触れる。と、その時、いきなりザーっと言う音が聞こえた。友里は驚いたように僕の顔を見る。

「何? 雨?」

「ああ、バルコニーを雨が叩く音や。すごい音やろ。夜は特に響くねん」

 それはまるで今日一日の出来事をすべて洗い流すような雨だと思った。

「きっと涙の雨やな」

「うん。わたしもそう思った。伊藤さん、もう翔一くんに会えたかな?」

「会えたよ。絶対」

「なあ、人ってな、幸せになるために生まれて来るんやって昔、本で読んだことあるんやけど、そんなんウソやんなあ」

「うん。たぶんウソやと思うよ。卑屈って言われるかもしれへんけどな、それって苦労したけど最後には幸せになれた人だけが言ったことで、苦労したけど結局不幸のまま終わった人の方がずっと多いと思うよ。一見、もっともらしく聞こえるけど、励ましじゃなくて勝ち組の自慢なような気がする」

「そうやな、あたしもそう思う。ひかりの家に来てる人見てたら、神様って不公平やなって思うわ」

「うん。伊藤さんも翔一くんも、次に生まれ変わったら、ほんまに二人とも幸せな親子になれたらええな。そう願うばっかりや」

 二人ともそれきり黙り込んだ。ただ深夜の雨音だけが聞こえていた。

 それから暫く経って、激しかった雨音が聞こえなくなった頃、僕は口を開いた。

「なあ、村井さん」

「何?」

「一つ聞きたいことがあるんやけど」

 ようやく二人がお互いの顔を見合う。友里は今にも泣きそうな顔をしている。

「伊藤さんの昔のことやねんけど、一体何があったん?」

 一瞬の沈黙の後、友里はその重い口をやっと開いた。

「あんまり言いたくないんやけどな、まあひかりの家ではみんな知ってることやねんけど、あの子な、昔、翔一くんがまだ生まれる前からお水やってやってん」

「うん、たぶんそうかな、と思った」

「うん。それでな、あの子、妻子ある人と不倫して、ほんで翔一くんが生まれたんや。けど、略奪してやろうとか、そんなことじゃなかったみたい。初めから独りで産んで独りで育てるつもりやったらしいねん。せやから妊娠がわかった時、店辞めて、その相手とも別れてんて」

「自分から身を引いたんか」

「て言うか、子供がほしかったみたい。その相手の子がほしかったのか、単に子供がほしかったのかはわかれへんけど、とにかく自分の子供がほしかったって言うてやった」

「なんでそこまでして子供がほしいんやろか。結婚したら、作らないとあかんて、何か義務感みたいなものは漠然とあったけど、あれは理屈と言うか後付みたいなもので、結局、男の僕にはよくわかれへん」

「そらそうや。女の本能やねんから。子供ほしいって思うのは、ご飯食べたりするんと同じやねん。けどな」

「けど?」

「うん、女もいろいろなんかも。わたし、時々わかれへんようになるときあるわ」

 そう言った友里の目は僕を見ていない。

「それで、伊藤さん、そこまでして作った子やのに、あんな重い障害があった?」

「ううん、違うで、生まれた時は、翔一くんは健常児やったんやで」

「え? どう言うこと?」

「病気でああなったって言うことになってる」

「なってる?」

「翔一くんが生まれてまだ一年経つか経たないかの頃やった」

 バルコニーを叩く雨音が再び大きくなった。僕は静かに友里の話に耳を傾けた。

 ――ううん、違うで。翔一くんは健常児やったんや。

 僕は藍黒い夜をじっと見ていた。窓から洩れた光が、降り止まぬ雨を針のように白く光らせている。長い夜が始まったのだなと思った。

 友里はぽつりぽつりと話し始めた。少し低めのトーンだが、その声はよく通る。僕にはそれがまるで深夜の怪談話みたいに聞こえた。すぐ傍に伊藤さんがいて、じっとこちらを見つめているような気がして怖かった。僕は友里との夜がこのような形でやって来ようとは夢にも思っていなかった。

                                     続く
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