第58話 二人きりになれる場所へ行こう

文字数 2,312文字

――日曜午後一時、いつものミスド上本町店前で待っています。

 友里から届いたメールを読み返し、間違いないことを確認するとすぐに僕は車を出した。大通りに出たところで、前方の信号が黄色に変わる。普段ならきっと手前で減速しただろう。けれど僕はお構いなしにアクセルを踏みこむ。

 もういつもの僕ではなかった。完全に自制を失っていた。事故を起こしても不思議ではなかったが、幸運なことに約束の時間の五分前に待ち合わせ場所に到着した。

 しかしそこに友里の姿はない。もしかしたら早く着きすぎたので、店の中で待っているかもしれないと思い、期待を抱きつつ店内に入った。

「いらっしゃいませ」と明るい声が掛かる。でも僕はそれに気に留めることなく、さほど広くもない店内を隈なく見回った。

 しかし友里の姿はない。あっさりと期待は裏切られた。このまま店を出ようかとも思ったが、お昼も食べていないので、後で友里と食べようと思い、腹の足しになりそうなドーナツを数個買い求めて、そして店を出た。

 再び車で友里を待った。車を停めた場所はバス停のすぐ横だった。もちろん駐停車禁止エリアだ。友里とすぐに合流するつもりで停めたが、やって来たバスに何度かクラクションを鳴らされてしまった。もはや僕の頭の中には友里のことしか入っていない。

 ハザードランプが明滅を繰り返す。十分が過ぎ、やがて十五分が過ぎた。一分一秒がとても長く感じられた。しかし友里は来ない。僕は再び携帯を取り出して見る。着信は入っていない。もう一度メール画面を開いて見る。確かに場所も時間も合っている。

 痺れを切らして電話を掛けた。六回コール後、『こちらはauです』の冷たい音声が流れた。

 この後、買い物にも行かなければならない。僕に与えられた時間は少ない。気持ちは焦り、携帯を握りしめて待つ時間は永遠のように感じられた。

 いよいよもう来ないのではないかと思い始めた頃、ようやく彼女からメールが来た。

「用があって、少し遅れます。ごめんなさい」

 このまま来なければ、もしかしたら平穏な日常に戻れたかもしれない。けれど彼女はやって来た。まるですべてを見越していたかのように、約束の時間より三十分も遅れた頃にふらりと現れた。まさか故意に遅れたわけではないのだろうが、結果的に僕の友里への思いは火遊びどころでは済まなくなっていた。

「ごめんな、遅くなって。友達と会っててん」

「いや、ええよ。けどあんまり時間ないんや、買い物に行かなあかん」

「え? これから? どこへ?」

「赤ちゃん用の食器を入れる棚を買いに」

「わたしもいっしょに行ってもいい?」

「ええよ。もちろん」

 そう言いながらも僕は頭の中で計算していた。四時には家に戻らなければならない。そして今は午後一時半。まだ二時間半ほどある。でも買い物もしなければならない。

 ふと道を挟んで向かいを見ると、そこには近鉄百貨店がそびえている。――そうだ買い物はここで済まそう。それなら三十分あれば事足りる。と言うことは二時間の余裕ができる。

 なぜこんなに悪知恵が働くのだろう。すぐさま僕は助手席の友里の方を向き、腹の奥底でずっと温めていた言葉を投げる。

「なあ、二人きりになれる場所へ行こう」

 友里が驚いた顔をした。

「え? それって、ホテルってこと?」

「うん」

「けど、お茶するだけって言ってたやん」

「あかん?」

「ううん。わたしはいいけど、でも時間ないのと違うの?」

「買い物は近鉄でするよ」

「わかった。わたしも行く」

「よし、じゃあ行こう」

 車を近鉄百貨店の立体駐車場に入れ、大急ぎで売り場へと向かった。

 ベビー用品売り場で、僕はそれらしい食器棚を物色していた。さすがにデパートだ。いい値段がする。ホームセンターの倍はしそうだ。でも今は価格ではない。と、その時、店の外で待つ友里に店員が声を掛けた。

「奥様もどうぞこちらでご覧になってください」

 ――奥様!

 僕たちは顔を見合わせる。

 日曜昼下がり。仲良くベビー用品売り場で買い物を楽しむカップル。酸っぱいものが僕の喉元までこみ上げる。早くこの場から去りたかった。

 そして急ぎ足で店を出て、購入した食器棚を車の後部シートに押し込んだ。二人を乗せた車は立体駐車場のスロープをぐるぐる駆け下りる。

 ゲートを抜け、白い太陽の光が降り注ぐ千日前通りに出た。黒いアスファルトに横断歩道の白がくっきりと浮き立つ。外気温は軽く三十度を越えているだろう。エアコンは唸りを上げるが、すぐに効かない車内はまるで蒸し風呂のようだ。

 暑かった。けれども目指す場所まではおそらく五分と掛からない。吹き出し口から噴き出す風が冷たくなる前に到着するだろう。額の汗を拭いつつ、僕は車を走らせた。

 上本町六丁目交差点を右折待ちする、その僅かな時間すら煩わしい。信号待ちの間、僕は左手を助手席に伸ばし、友里の胸元にそっと触れた。

「あっ!」

 友里がビクリと小柄な体を揺らしたが、すぐに僕の左手の上からそっと自分の両手を重ねた。その手のひらはじっとりと汗ばんでいた。指はTシャツの上から、ブラの硬さをはっきりと感じ取っていた。友里はゆっくりとこちらを向いて、含みのある笑顔を見せる。でもその視線はどこか虚ろに泳いでいるように見えた。

 汗が一滴、額から首筋へと伝い落ちた。その時、信号が青に変わり、僕は再びハンドルに手を戻す。一斉に動き出した車の、ゴーッと言う大きな音が交差点を包み込む。

 左側の車線を何台もの車が交差点を渡って行く。右折矢印信号はまだ出ない。方向指示器の断続音が聞こえていた。――暑い。

                                    続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み