第101話 粒粒辛苦

文字数 1,928文字

遼太と静子に対しても、僕は身を粉にして働き、援助を惜しまなかった。僕のしでかした罪がお金で許されるなどとはけっして思わないし、静子のわだかまりが融解するとも思わない。でも何かしら二人のためにせずにはいられなかった。

 直也が生まれた当時の〝人でなし〟だった僕からは想像もつかない。まるで人が変わったように、やさしくなった。考えてみれば、僕がこんなにも慈眼に目覚め、感謝を忘れない人間になったその理由は、やはり友里との出会いではなかったか。

 そしてお金と言えば、静子への慰謝料はマンションの購入という形で済ませていたが、しかしそれでも僕は、自分の欲しいもの一つ買わずに、少しでも余裕があればそのお金を養育費に加算して払い続けた。

 静子と遼太の二人が、決して経済的に困窮しないように僕は誠心誠意努めたのである。まさに粒粒辛苦であった。やがてその誠意が静子に伝わったのか、遼太が僕の家と静子の暮らす家を頻繁に行き来するまでになった。

 

 さてこの頃どうも僕の胃の調子が良くない。と言うことで僕は、忙しい合間を縫って近くの胃腸科を訪ねてみることにした。内視鏡検査を受け、その結果、逆流性食道炎であることがわかった。この十三年というもの、僕はがむしゃらに頑張って来た。体が悲鳴をあげてもおかしくはないのだろう。

 僕は内視鏡検査といっしょに超音波エコー検査も受けたのであるが、その際、小さな異常が発見された。膵臓の内部には、作り出された膵液が流れる主膵管という管がある。その主膵管の一部に膵嚢胞と呼ばれる小さな水の入った袋ができていた。

「まあ今のところ大丈夫だとは思いますが、念のためにMRIを撮ってみましょう」

 医者はそう言った。MRIも撮ってもらったが、確かに大したことはなさそうである。

「まあ後は経過観察ということで」

 医者は極めて事務的に言った。僕は逆流性食道炎の薬を飲みつつ、膵臓の方は来年一年後に再検査ということになった。

 その翌年の夏のこと。直也は十七才、支援高校の三年生、僕は五十才になる前月のこと。ここ十年というもの、友里からの連絡はなかった。十年経っても、彼女のことを思い出せばまだ胸は痛んだが、それも日々の多忙の前では徐々に薄れつつあった。

 ある朝、僕は洗面所で鏡を見て驚愕する。黄色いのだ。顔が。一目でこれが噂に聞く黄疸であるとわかった。その日僕は急遽仕事を休んで、行きつけの胃腸科へと向かった。

 結果、わずか一年も経たないうちに小さかった嚢胞は約五倍の大きさに膨れ上がっていた。その進行の速さに医者も驚いていた。つまりは膵臓癌であった。そういえば最近、下痢気味で腰から背中にかけてだるい痛みがあった。顔が黄色くなって初めてそれがわかったのである。今のところ大丈夫だ、などと医者の軽い言葉を信用してしまいこの様である。

 ああそうだ。罰が当たったのだろう。当然のことに違いないと僕は思った。

 その翌月。七月下旬に僕の手術が決まった。即断だった。それほど切迫しているのだろう。僕はそれを直也に伝える。

「ごめん、直也、父さんな病気になってしもた。急やけど、来月二十日に入院ですぐ手術やねん。入院はたぶんひと月近くはかかると思う」

 直也は思いっきり当惑した顔になる。(え? 僕はどうなるの?)と、顔に書いてあるようだ。見栄を張っている場合ではない。ここは静子に頼らざるを得ない。離婚する前に静子と交わした公正証書によれば、お互い何かあった時は、子供の面倒はお互いで看ることと記されていた。

 幸い学校は夏休みに入る。昼間はクラブ活動があるが、支援高校の部活動なので家の已む得ない事情のために休んでも問題はないだろうと思った。学校が始まるまでには、退院できるだろうと思う。今は、兎に角、僕の手術が最優先事項に違いない。

「直也、悪いけど夏休みの間、母さんとこへ行ってくれへんか? パソコンもゲーム機も持って行ってええから。な?」

僕は直也に尋ねた。

「…………」

 直也は明らかに嫌そうにしている。だが今回は直也の意向は二の次だった。他に方法はどう考えても見当たらないのだから。僕は静子に電話を掛ける。そして今の状況を手短に伝えた。電話口から静子の声が響く。

「え? 手術? 膵臓?」

 しばらく静子の声が途絶えた。明らかに動揺している。

「それで悪いんやけど、その間、直也預かってくれへんか?」

「ちょ、ちょっと待って! 大丈夫なん? ほんまに大丈夫なん?」

「たぶん……。わからんけど」

「病院どこなん? 行くわ。教えて」

「大阪国際がんセンター」

「ええ!」

 ふと静子の不安な表情が見えたような気がした。

                                   続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み