第11話 ホームパーティ

文字数 2,831文字

   6



 一九九八年  夏

 児童相談所の勧めで、直也は、『ひかりの家』という福祉施設に入所が決まった。ひかりの家は民間の児童発達支援施設――障害を持つ未就学の子供の発達支援をする場所――であったが、保護者が希望すれば健常の子供も通所が可能だった。そしてここでは障害のある子も健常児も分け隔てなく同等に扱われていた。

 直也がひかりの家に通い出して約半年が過ぎた。

 深い闇の底で懸命に直也を探す静子に救いの手を差し伸べたのは、僕ではなく、その施設に通う同じ境遇の仲間たちだった。 

 彼らもまた、静子同様すべてが暗がりの中での手探りから始まっていた。余裕などはない。ただ生きること、無事に明日を迎えることだけで精一杯だった。でも苦しんでいるのは自分一人じゃない。仲間がいる。そう思えることが静子にとっても大きな心の支えとなった。

 静子はそんな仲間に支えられて少しずつ前に進み始めていたが、僕は相変わらずのままであった。しかし表面上はとても献身的に尽しているように振舞っていた。夫婦間に波風を立てぬよう、周りとの軋轢を感じさせぬよう細心の注意を払い、状況を分析し、そして、最善の行動を取ろうとしていた。

 どうすれば、静子の感情の昂ぶりを抑えられるか、どうすれば周りとうまくやっていけるか。僕にとっての毎日はそれの繰り返しだった。

 それは、直也と静子の二人を気遣っているように見せかけて、実は僕自身を一生懸命守っていたのだろう。妻子を愛することのできない夫は、真剣に妻子を守ることなんてできないはずだ。当たり前のことだった。そして自分自身を殺すことにも限界がある。やがてメッキは剥がれていく。

 

 そんなある日、ひかりの家に通う子供とその母親たちが家にやって来ることになった。日々塞ぎこみがちな静子を皆で励まそうと言うことらしい。そこでホームパーティをやろうということになった。

 それを静子の口から聞いた時、まず僕は思った。なぜだ! なぜうちでやる必要がある? 他の家でも構わないだろう? 静子と直也を招待してくれればいいではないか。

 僕はできるならそういう接触は避けたいと願っていた。けれど僕は内心とは裏腹に嫌な顔一つすることなく二つ返事で引き受けた。「ああ、君がそれで少しでも気持ちが楽になるなら」と言葉を付け加えて。静子は案の定大変申し訳なさそうな顔をした。僕は(頼むからそんな顔しないでくれ!)と、心の中で叫んでいた。

 

 ホームパーティ当日。午後七時。約束の時間になった。

 途端に自宅の電話のベルが鳴る。僕が少しためらっていると、さっと横から静子が受話器を取った。

「うん、ガード沿いにな、もうちょっと進んだら花屋さんがあるから……そうそう、そこ右な。うんそうそう……」

 静子は身振り手振りを交えて一生懸命説明し、一通り道順を伝えると自信なさげな表情で受話器を置いた。この辺は一方通行も多く、免許を持たない彼女の道案内はかなり不安だ。やはり僕が出るべきだった。いや途中からでも代わるべきだった。

 そして静子は顔を上げ、僕の方を向いて言った。

「あんた、ごめん、車、もうすぐ着くと思うんやけどな、車椅子で来てはるんよ。私ちょっと今手ぇ離されへんから悪いけど下まで迎えに行ったってくれへん?」

「ああ、わかった。すぐ行くよ」

「ごめんやで。お願いします」

 静子の得意料理である唐揚げがガスコンロの上でピチピチと音を立てていた。リビングに油の匂いが漂う中、僕は静子に代わって部屋を後にした。

 エントランスを出るとそこには碧い海の底みたいな夏の宵が広がっていた。右手にはマンション沿いに車二台分の外来者用駐車スペースがある。その向こうの、おそらくはそこも駐車場になるはずだったところの前裁には大きな木蓮の木が濃緑の葉を生い茂らせていた。

 と、そのとき、前裁のすぐ手前の駐車スペースに一台の白いフィアットが前進で滑り込んで来た。運転席には女性の姿。彼女がさっきの電話の人なのだろうか。エンジンが止まり、運転席のドアが開き、小柄な女性が車から降り立った。僕と目が合う。お互い軽く頭を下げる。

 おそらく三十手前ぐらいだろうか。白い半袖カットソーにスリムな黒のパンツ。街灯に照らし出された端整な顔立ちはメイクもばっちり。一見、新地辺りのホステスさんかと見まごうばかりの垢抜けた美人だ。

 彼女はくるりと向こうを向き、ゆっくり押し込むようにドアを閉めた。きゅっとこちらに突き出した形の良いヒップからその上に視線を移すと華奢な背中の中央にすっと横一文字に黒いブラのラインが透けて見える。僕は思わず目を逸らした。

 彼女はこちらに向き直って、そしてにっこり微笑みながら「伊藤と申します。はじめまして。あ、車、ここに停めてていいですか?」と丁寧に訊いた。

「いいですよ」と答えるとすぐに車の後ろ側に回り、ハッチバックを跳ね上げ、車椅子を取り出してパタパタと手早く組み立てる。前向きに車を停めた理由がやっとわかった。

 それから助手席側に回ってドアを開け、「翔ちゃん、着いたよ。さあ降りよかぁ」とやさしく話しかけながらその子供を大事そうに抱え上げ、車椅子に座らせた。そこまでが流れるような一連の動作だ。まったく無駄がない。熟練の職人技のようだ。もう何度も何度も数え切れないほど同じことを繰り返して来たのだろう。

 翔ちゃんと呼ばれる小さな男の子の鼻にはチューブが差し込まれていた。かろうじて開かれた薄いその目はどこか遠くを見つめている。首は力なくうなだれ、体はまるで骨がないようにぐにゃっとしている。その母の出で立ちとこの子供にはあまりのギャップがあった。どこをどう考えてもこの二人は結び付かない。

 続いて車椅子マークの付いた日産セレナが、やはり前向きに停まり、その車から母親らしき女性と四、五才ぐらいの男の子が元気よく降り立った。その男の子には障害があるようには見えない。

 彼女は僕の顔を見ながら大きな声で「こんばんは!」と言った。伊藤さんと違ってほぼノーメイクのように見えたが、老けているようにも、まだ若いようにも見える。着ている服のせいもあるだろう。上下ジャージ姿で溌剌としてはいるが、いかにも生活の匂いがする。きっとおしゃれなど生活の中に埋没してしまったのかもしれない。

 彼女も車の後ろに回り、後部のハッチバックドアを跳ね上げ、リモコンのボタンを操作すると、頑丈そうな二本のへの字アームに支えられたリフトがせり出して来て、ゆっくりと地面に着地した。そのリフトには背もたれ部分の大きな、いわゆるハイバック式の車椅子とそれに座る、おそらく娘さんだろうと思われる少し大きい子供が乗っていた。

 僕は思わず目を逸らしてしまった。その子の薄い唇からは大量の涎が流れ出し、それは街灯に照らされて、かたつむりの這った跡のように光っていた。

                                      続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み