第46話 まるで生まれ変わったみたい

文字数 2,369文字

 なかなか静子は戻って来ない。せっかくの朝食が冷めてしまう。気付けば空調は適温のはずなのに、僕の額に汗が滲んでいた。静子のいないベッドを見ていると、まるで親鳥がエサを探しに行ったみたいに思えたが、そうではなく、正しくは雛に餌をやりに行っているのだと思い直した。僕はベッド脇の丸椅子に腰掛けながら極度の緊張を紛らわすために、そんなどうでもいいことばかりを考えている。

 静子が戻ってからと思っていたが、手持ち無沙汰なのでクッキーの詰め合わせを取り出して周りの女性たちに配ることにした。 

 彼女たちは皆どこか晴れやかな表情をしている。

 静子に言わせると、同時期に出産を体験した女性たちは、まるで戦友のように妙な連帯感が生まれるのだそうだ。でもそれは大概の場合、ここにいる間だけのもので、ここから出れば各々の住む世界によってすぐに名前も忘れ去られてしまう。

 つまり一過性の浅い友情なのだそうだ。前回も退院してから一、二度は食事会などをしたらしいが、直也に障害が見つかり、そのことを知らせると、それ以後連絡は来なくなった。そんなものだ。

 周囲の観察もすっかり終わった頃、ようやく静子が戻って来た。

「おはよう、もう来てたんや。早いね」

 昨日よりもかなり表情は明るいので僕はほっとした。授乳で少しは癒されたか。赤ちゃんの癒しパワーは高名なヒーラーが束になってかかっても勝てないだろう。

 今しかない。そうだ、話すのは今しかない。僕は気持ちを奮い立たせた。そしてタイミングを見計らって一気に言葉を投げた。

「昨日は、ちょっと大変そうやったから話されへんかったんやけど」

「何?」

「昨日、直也のお迎え行った時にひかりの家で聞いたんや」

「せやから何?」

「伊藤さんておるやろ? 前にうちに来た」

「もしかして、翔一くんのこと?」

「なんでわかるん? 静子、誰かに何か聞いたんか?」

「聞いてないよ。やっぱり何かあったん?」

「うん。翔一くん、昨日の朝にな、亡くなったんや。けど、やっぱりってお前……」

 静子の表情が一瞬曇った。

「そう。そんな気してた」

「何で? 何でなん?」

「うん、まあ、あの子、いろいろあってな」

 皆一様に同じことを言う。

「いろいろって?」

 僕はそれがまるで初耳であるかのように尋ねる。

「いろいろや。まあ誰でも知られたくないことってあるんや」

「教えて」

「私もはっきり知らんから、いい加減なことは言われへん」

「昨日は警察が来て事情聴取してたよ」

「警察か……」

 静子の一点を見つめるその目が怖かった。友里もそうだったが、静子も間違いなく怒っていた。女たちをこれほど怒りに駆り立てる理由とは何だろうか。興味本位だけでこれ以上踏み込んで聞く勇気は僕にはなかった。

 ――その写真送ったらな、返事、誰も来いへんかってん。あはははははっ、あははははははっ、あはははははっ、あははははははっ

 伊藤さんがうちにやって来た時の、あの引きつった笑い声が僕の中で何度も響いていた。

 気まずい沈黙が二人を包む。となりのベッドから聞こえるテレビニュースの小さな音声だけが、やけにはっきりと耳に入った。 

 昭和の皇太后が昨日崩御され、本日のJRAの開催は取りやめになったと告げていた。そう言えばそんなことを昨日のニュースで聞いた。

 ベッド脇のテーブルの上に置かれた朝食にはまだ手がつけられていない。窓から差し込む朝の光の中で、パンもフルーツも色あせて見えた。オムレツのケチャップの赤だけがやけにはっきりと映る。

「朝ごはん、食べたら?」

 僕はぬるくなった牛乳パックのシールをはがして静子に手渡す。

「うん、ありがとう。置いといて」

 静子は牛乳を受け取らず、力なく答える。すっかり食欲を無くしてしまったようだ。でも言わなければならないことがもう一つあった。

「あ、それで急やねんけど、翔一くんな、今晩お通夜で明日お葬式なんやけど」

「そう……。行きたいけど、ちょっとわたしは無理やから、代わりにお願いしていい?」

 ほんの逡巡の後、静子は僕の顔を見て冷静に言った。もともと色白な彼女が、朝の陽光を受けてその顔はさらに白く、瞳だけがいやに茶色く澄んで見えた。

「うん、ええよ、成り行き上、行くつもりやったから」

「成り行き上?」

「うん。その時な、近藤さんに頼まれたんや。伊藤さんのうちがすごく駅から遠いらしくて、そこにいっしょにおった村井さんらを車で連れて行ってあげてほしいって」

 ――微妙な言い方。嘘ではない。けれど真実でもない。

 こう言いながら、僕は自分でも言い訳がましいと感じていた。しかし別に隠すことではないし、もし黙って行って、後からそれが静子の耳に入ったらその方が嫌だと思った。

 一瞬、静子の目が鋭く変わったような気がした。

 女性の勘は、どんなに些細な出来事や言葉だけでも、不穏な空気を読み取ってしまうのだろう。少なくとも僕はまだ潔白だった。ただ、今まで消極的だった僕が、ひかりの家の内部事情に首を突っ込むことが静子にはひっかかっているのだろう。

 そこから飛躍して僕の心の中に芽生えつつある友里への感情を敏感に見透かされているのではないかと、僕は内心ヒヤヒヤしていた。

 しかし静子は、翔一くんと伊藤さんのことを本当に気の毒に思っているらしく、何度も自分の代わりに、ちゃんと弔問するように頼み、退院したら必ず行くから伊藤さんに伝えて、と言った。

 それから彼女は、誰に語るでもなく目を伏せ、まるで独り言のように呟いた。

「わたし、なんかすごく彼女に申し訳ない気がする」

「その気持ちはよくわかる。僕もそれは思ったから」

「まるで生まれ変わったみたいや」

――まるで生まれ変わったみたいや……。

 この言葉は僕の脳裏に深く刻み込まれた。

                                   続く
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