第61話 焼け死んだ男

文字数 2,331文字

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 昔、勤めていた会社で起こったある出来事をふと思い出した。衝撃的な事件だった。今も尚、僕の記憶にしっかりと留まって消えることはない。

 それは、僕が大学を卒業して最初に就職した会社で三年目に起こった事件だった。当事者の男は僕の従事する営業部の部長という役職に就いていた。直属している最も上の存在だ。年は五十をとうに越えていたはずだ。

 その上司が事件を起こすまで、内にも外にもその男の悪い噂を一度も耳にしたことはなかったし、入社したての若い自分は、随分とその男の世話にもなった。派手さはないが、勤続三十年以上も毎日コツコツと仕事一筋に働いて来た上司の鏡とも言うべき男だった。

 そんなまじめを絵に描いたような男が、まさか新聞を賑わすなどと誰が思っただろう。

 結果から言えば男の自殺だった。それも首を括るとか、飛び降りるとかではなく、おそらく単純に考えて最もインパクトの強い方法――焼身自殺を彼は選んだ。しかも人前で頭から灯油をかぶってそのまま自分で火を点けたのだ。

 大体に於いて焼身自殺などと言う死に方を選ぶのにはそれ相応のメッセージ性がある。例えば、何か理不尽なことに抵抗してだとか、誰か、あるいは何かに対して強い恨みを持っているだとか、つまり、命を懸けて自分の強い意思をアピールしたいと思うからこそ選ぶ死に方だ。でなければそんな苦痛を伴い、尚且つ見た目にも惨たらしい方法は選ばない。確実に楽に逝ける方法はいくらでもあるのだから。

 でも、男にはこれと言った社会的な不満などはなかった。誰かに強い恨みを持っていたわけでもない。

 自殺の理由は単純だ。同じ職場に勤めていた四十代の事務職の女性との不倫の果ての暴挙だった

 その男にも、相手の女性にもお互い、家庭があり、子供もいる。地位も名誉もある。世間の常識が、そんな二人を許さなかった。

 男はすべてを捨てる覚悟でその女性と添い遂げようとした。しかし彼が妻子を捨てたとしても、女性側の夫は絶対に許さなかった。

 そうなると女性の方が冷静だ。彼女は泣く泣く別れようと男に切り出した。けれど常軌を逸した男の耳には入らない。

 一緒になれないなら、と、ある夜、男は頑然たる決意を持って彼女の家を訪ねた。彼女の旦那にしてみればふざけた話だ。失礼極まりない。当然の門前払い。しかしそんなことは百も承知だった。狂った男には通用しない。

「帰れ」「帰らない。彼女を出すまでは絶対に引かない」の押し問答。大声で夜中に騒ぎ立てるものだから、近隣の住人たちが何事かと様子を見に玄関から顔を出し始めた。

 それでも男は立ち去ろうとせず、声を荒げるばかりだった。

 とうとう我慢できずに彼女が顔を出した。すると男は待っていましたとばかりに「俺といっしょに行こう」と言った。

 しかし彼女は「もう、やめて!」と首を横に振る。そして男の独りよがりな愛は狂気に変わった。

 男は乗って来た車のトランクから灯油の入ったポリタンクを取り出し、二人の見ている玄関先、家の前の道路でどぼどぼと頭からかぶって、ポケットからライターを取り出した。

 そしてもう一度「俺といっしょに」と彼女に向かって悲痛な声で叫ぶ。彼女は大声で「やめて!」とは叫んだだけで、決して同意はしなかった。彼女と男の温度差は広がるばかりだ。

 後で聞いた話では、この時点で、彼女もその旦那もまさか本当に火を点けるとは思っていなかったのだと言う。

 彼女はただ男が怖かったらしい。男は淋しそうに微笑んで胸に火を点けた。あっという間に全身火だるまになり、それでも彼女の名を大声で呼びながら、まるで踊るように苦しみもがいてその場に倒れた。

 火はすぐに消火器で消し止められ、救急に搬送されたが、結局次の朝、男は逝った。遺体の損傷は激しく、顔も識別するのが困難だったそうだ。

 その事件の後、彼女は会社を辞め、そして離婚した。死んだ男の家族もどこか遠いところへひっそりと引っ越して行った。

 何一つ、何一つとして良いところがない。すべてが不幸で、そして最悪の結末だ。

 僕はこの話を聞いた時、大変なショックではあったが、別段悲しくはなかった。ただ信じられないと思った。なぜそこまで、命を賭けるまで真剣になれる? 悲しむどころか、それまで尊敬までしていた上司が、何と言うバカなことをするものだと、逆に軽蔑さえしていた。

 なぜだ? なぜ死ななければならない? その男の真意を測りかねる。もっと言えば、そもそも不倫なんてする奴は大バカ野郎だと思っていた。

 しかし僕は、不倫をする奴は頭が悪いと思ってはいたが、不倫そのものを否定はしていなかった。心のどこかで、やるならバレないようにやれよ、つまりその程度のことで命を懸けるなんて愚の骨頂ではないかと考えていた。

 だが、今はどうだ。今なら少しは理解できる。明らかに間違っていると思うことでも、どうにもならないこともある。

 焼け死んだあの男は、もうバレようがどうしようが関係ない。自分が世間からどのように見られても構わない。どのような叱責を受けようが、嘲笑されようがもうどうでもいい。それは死を選んだ男にとって大した問題ではない。

 それよりも重要なことは、どうあってもいっしょに生きることが叶わないのなら、自分の強い意思を彼女に見せつけることによって、彼女の心に一生留まることができると言うこと。そこまでの境地に至っていたのだ。

 人の心とは、どうしようもなく悲しくて、弱いところがある。いつの世にも痴情の果てに痛ましい事件が起きる。時に、命よりも情愛の方がずっと強くて厄介であると、僕はようやくわかりかけていた。



                                続く
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