第12話 エンシュア

文字数 2,796文字

 ジャージ姿の女性は手早くその子の顔をハンドタオルで拭った。その車椅子の女の子は、翔ちゃんよりもずっと大きい子供だった。けれど、やっぱりぐにゃぐにゃだった。翔ちゃん同様に鼻にはチューブが、そして首に掛けられたハローキティのよだれかけが印象的だ。

「ユキちゃんこんばんわぁ」

「伊藤さん、翔一くん、こんばんわぁ」

 その二人の母親たちは大変親しいように見える。お互い車椅子を覗き込んで明るく声を掛け合っていた。

 車椅子二台、僕も含めて大人三人、健常児一人、狭いエレベーターに乗るのも一苦労だった。途中廊下で出会ったマンションの住人が僕たちを見て、挨拶したものの、その顔は驚きと不安で引き攣っていた。しかし挨拶を交わした僕の顔もかなり引き攣っていたのだろう。まったく怖いものなしの集団に思える。

 部屋に戻る。後から自転車でやって来た家族を含めて全員が揃った。寝たきりの子、二人。自閉症児、直也を含めて二人。健常児、これは障害のある子供の兄弟、二人。そしてその母親たち。父親は僕一人だけ。総勢十人。狭いマンションのリビングは大変な騒ぎとなった。

 奇声を上げる子、どこを見ているのか、もしかしたら何も見えていないのか、ただうつろな目をしてぐったり寝ている子、直也といっしょに、ほんのひと時もじっとしていない子。そしてテレビからは、おかあさんといっしょが大音量で流れていた。

 そんな子たちを尻目に母たちは大して気にするでもなく、よく食べ、よく飲み、大声でしゃべり、そして高らかに笑う。その光景は僕を心底震え上がらせるには十分だった。僕は入れない。その輪にはけっして……。



 伊藤さんは、「先にご飯食べさすわ」と言って、鞄からエンシュアと呼ばれている水色の缶を取り出し、カシュっと蓋を開けた。そしてそれを翔一くんの鼻から出ている管の先に付けたバッグに全部注ぎ入れた。

 透明なチューブの中を象牙色の液体がゆっくりと翔一くんの鼻から体内に入って行く。それは伊藤家の日常。でも初めて見た僕には痛々しく感じられる。

「この子がこんなんなるまではなぁ、友達とか、親戚とかなぁ、みんなめっちゃ仲良かってんけどなあ、『こんなんなりましたぁ』言うて写真送ったらな、返事、来いへんかってん。あはははははっ」

 ぐにゃぐにゃの翔一くんの美人ママ、伊藤さんは、エンシュアを与えながら大笑いしていた。

「そら、伊藤さん、あんた、あかんて。無理やって!」

「あはははは!」

「あはははっ!」

 女たちの乾いた笑いが湧き起こる。もちろん静子も笑っていた。笑いに変えないと、どんどん落ちて行くのだろう。

 当事者ならどんなに差別的なことを言ってもそれはただの自虐で済んでしまうものなのか。僕はその母親たちの会話を背中に聞きながら、一人キッチンで黙々と食事の用意に追われていた。でも逆にその忙しさが心底有難かった。

「旦那さん、もうそこええからこっち来て食べてください」

 翔一くんの母、伊藤さんが言った。周りに対する気配りはかなりなもの。きりりとした派手目のメイク、はきはきとした物言いは、やはりどこかお水の香りがした。彼女だけを見ていると、どう考えても重度の障害を持つ翔一くんとは結び付かない。彼女の生き生きとした表情からは、その苦悩を推し量ることなどできやしない。

 そんな伊藤さんは一人せわしなく動いている僕に向かって何度も声を掛ける。

「旦那さん、もう気ぃ遣わんといてください」

 他の母たちも口々に同じことを言う。僕は困った顔をして見せる。

「あんた、ちょっと静ちゃん、旦那さん、何にもせえへんて言うてたけど、すごいやさしいやんか」

 伊藤さんが静子に言う。

「ほんまやほんまや、うちのんやったら、ほんまになんにもせんと飲んでるだけやで」

「そうかなあ」

「そうやで、なあ旦那さん、お料理も上手で、ほんま羨ましいわ」

(けど、お宅の旦那、子供の面倒はしっかり看るやろ?)と僕は咄嗟に思ったけれど口には出さない。

「良く気の付く、やさしい旦那様やね。お料理も上手で、あんたええ人と結婚したね」

 それがお世辞なのか本心なのかわからないけれど、とにかくその場に居る女性たちは僕を褒めちぎった。そこまで言われてはパーティの輪に入らないわけにもいかず、僕は遠慮がちにテーブルに付いた。と、その時だった。

 さっきまで隣の部屋でテレビ画面を食い入るように見ていた直也が、なぜか僕のところまでとことこと歩いてやって来て、膝の上にちょこんと座った。皆が一斉に直也のその行動を見つめた。

「直也! お父さん来て嬉しいんや。そうか、来てほしかったんやなあ」

「ちゃんとわかってる。この子、大丈夫やで。静ちゃん、心配せんでええよ」

 その様子を見ていた母たちが口々に言った。

 直也は僕をじっと見つめていた。さも何かを言おうとしているようだ。

「直也、どうしたん、パパになんかしてほしいのん? おなかすいた?」

 静子が言う。彼は膝の上の直也を抱きかかえ、そっとその頭を撫でた。今までも直也の頭を撫でることはあったが、それは静子や、他の誰かが見ている時だけだ。可愛がっていることを演じていたのだ。

 でもその時は違った。膝にちょこんと座る、もの言わぬ直也を抱いてその頭をやさしく撫でていた。初めてだった。勝手に体が、手が動いていた。

 向かいに座っていた静子がその様子をじっと見ていた。さも何か言いたげなその瞳は、少しうるんでいるようにも見えた。頭を撫でられた直也は、満足したのか、僕の手をすり抜けて膝から降り、すっと立ち上がった。そして振り返って僕の顔をじっと見つめた。

 それは時間にしておそらく数秒のことだったろう。一瞬、テレビから流れる大音量も、母たちの騒々しいおしゃべりも、まるで時が止まったようにピタリと止んだかに思えた。

 その黒々とした二つの大きな瞳が、じっと僕を、僕の心を捉えていた。その奥底には、何かとても強い意思を感じる。いつものぼんやりとした虚ろな視線ではない。この子は、僕と静子が創り出したものに違いない。自分たちの子供。そう実感した。

 と、その次の瞬間、直也は顔をしかめ、口を半開きにしたかと思うと、僕に向って大量に吐いた。

 まだ原型を留めたイチゴをこれでもかと言うぐらい吐いた。ゲホゲホ咳をしながら。僕の服はまともに大量の吐しゃ物を受けた。皆が一斉に「あっ!」と叫んだ。そして直也は大声で泣き出した。でも元気そうだ。どうやら本当にイチゴを食べ過ぎたようだ。だから、次に場は、大きな笑い声に包まれた。

「あはははははっ! 直也!」

「あははははは、やったなあ」

 辺りに吐しゃ物の甘酸っぱい臭いが漂っていた。気持ちは悪かったが、決して不愉快ではなかった。直也の吐しゃ物まみれになりながら、僕はなぜかむしろ嬉しいと感じていた。
                                続く
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